黒衣の義人
三
それよりも前の、夕ぐれのことである。
夕陽《ゆうひ》のうすれかけた湖《みずうみ》の波をザッザときって、陸《おか》へさして泳いでくるものがあった。湖水の主《ぬし》の山椒《さんしよう》の魚《うお》かとみれば、水をきッてはいあがったのはひとりの若僧《わかそう》——かの忍剣《にんけん》なのであった。
どっかりと、岸辺《きしべ》へからだを落とすと、忍剣はすぐ衣《ころも》をさいて、ひだりの肘《ひじ》の矢傷《やきず》をギリギリ巻きしめた。そして身をはねかえすが否《いな》や、白旗《しらはた》の宮へかけつけてきてみると、伊那丸《いなまる》のすがたはみえないで、ただじぶんの鉄杖《てつじよう》だけが立てかけてのこっていた。
「若さま——、伊那丸さまア——」
二ど三ど、こえ高らかに呼んでみたが、さびしい木魂《こだま》がかえってくるばかりである。それらしい人の影もあたりに見えてはこない。
「さては」と忍剣は、心をくらくした。湖水のなかほどへでたとき、ふいに矢を乱射《らんしや》したやつのしわざにちがいない。小さな|くりぬき《ヽヽヽヽ》舟であったため、矢をかわしたはずみに、くつがえってしまったので、石櫃《いしびつ》はかんぜんに湖心のそこへ沈めたけれど、伊那丸の身を何者かにうばわれては、あの宝物《ほうもつ》も、永劫《えいごう》にこの湖から世にだす時節もなくなるわけだ。
「ともあれ、こうしてはおられない、命にかけても、おゆくえをさがさねばならぬ」
鉄杖をひッかかえた忍剣は、八ぽうへ血眼《ちまなこ》をくばりながら、湖水の岸、あなたこなたの森、くまなくたずね歩いたはてに、どこへ抜けるかわからないで、とある松並木をとおってくると、いた! 二、三町ばかり先を、白い影がとぼとぼとゆく。
「オーイ」
と手をあげながらかけだしていくと、半町ほどのところで、フイとその影を見うしなってしまった。
「はてな、ここは一すじ道だのに……」
小首をひねって見まわしていると、なんのこと、いつかまた、三町も先にその影が歩いている。
「こりゃおかしい。伊那丸《いなまる》さまではないようだが、あやしいやつだ。一つつかまえてただしてくれよう」
と宙《ちゆう》をとんで追いかけていくうちに、また先の者が見えなくなる。足をとめるとまた見える。さすがの忍剣《にんけん》も少しくたびれて、どっかりと、道の木の根に腰かけて汗をふいた。
「どうもみょうなやつだ。人間の足ではないような早さだ。それとも、あまり伊那丸さまのすがたを血眼《ちまなこ》になってさがしているので、気のせいかな」
忍剣がひとりでつぶやいていると、その鼻ッ先へ、スーッと、うすむらさき色の煙がながれてきた。
「おや……」ヒョイとふりあおいでみると、すぐじぶんのうしろに、まっ白な衣服をつけた男がたばこをくゆらしながら、忍剣の顔をみてニタリと笑った。
「こいつだ」
と見て、忍剣もグッとにらみつけた。男は背《せ》に笈《おい》をせおっている六部《ろくぶ》である。ばけものではないにちがいない。にらまれても落ちついたもの、スパリスパリと、二、三ぷくすって、ポンと、立木の横で、きせるをはたくと、あいさつもせずに、またすたすたとでかけるようすだ。
「まて、六部《ろくぶ》まて」
あわてて立ちあがったが、もうかれの姿は、あたりにも先にも見えない。忍剣《にんけん》はあきれた。世のなかには、奇怪なやつがいればいるものと、ぼうぜんとしてしまった。
疑心暗鬼《ぎしんあんき》とでもいおうか、場合がばあいなので、忍剣には、どうも今の六部の挙動《きよどう》があやしく思えてならない。なんとなく伊那丸《いなまる》の身を闇《やみ》につつんだのも、きゃつの仕事ではないかと思うと、いま目のさきにいたのを逃《に》がしたのがざんねんになってきた。
「あやしい六部だ。よし、どんな早足をもっていようがこの忍剣のこんきで、ひッとらえずにはおかぬぞ」
とかれはまたも、いっさんにかけだした。