朱柄の槍を持つ男
一
雲の明るさをあおげば、夜はたしかに明けている。しかし、加賀見忍剣《かがみにんけん》の身のまわりだけは、常闇《とこやみ》だった。かれは、とんでもない奈落《ならく》のそこに落ちて、土龍《もぐら》のようにもがいていた。
「伊那丸《いなまる》さまはどうしたであろう。あの武士の群《む》れにとりかえされたか、あるいは、六部《ろくぶ》の木隠《こがくれ》というやつにさらわれてしまったか? ——そのどっちにしても大へんだ。アア、こうしちゃいられない、グズグズしている場合じゃない……」
忍剣は、どんな危地《きち》に立っても、けっしてうろたえるような男ではない。ただ、伊那丸の身をあんじてあせるのだった。地の理にくらいため、乱闘のさいちゅうに、足を踏《ふ》みすべらしたのが、かえすがえすもかれの失敗であった。
ところが、そこは裾野《すその》におおい断層《だんそう》のさけ目であって、両面とも、切ってそいだかのごとき岩と岩とにはさまれている数丈《すうじよう》の地底なので、さすがの忍剣《にんけん》も、精根《せいこん》をつからして空の明るみをにらんでいた。
「む! 根気だ。こんなことにくじけてなるものか」
とふたたび袖《そで》をまくりなおした。かれは鉄杖《てつじよう》を背なかへくくりつけて、護身《ごしん》の短剣をぬいた。そして、岩の面へむかって、一段《いちだん》一段、じぶんの足がかりを、掘りはじめたのである。
すると、なにかやわらかなものが、忍剣の頬《ほお》をなでてははなれ、なでてははなれするので、かれはうるさそうにそれを手でつかんだ時、はじめて赤い絹《きぬ》の細帯《ほそおび》であったことを知った。
「おや? ……」
と、あおむいて見ると、ちゅうとから藤《ふじ》づるかなにかで結びたしてある一筋《ひとすじ》が、たしかに、上からじぶんを目がけてさがっている。
「ありがたい!」
と力いっぱい引いてこころみたが、切れそうもないので、それをたよりに、するするとよじのぼっていった。
ぽんと、大地へとびあがったときのうれしさ。
忍剣はこおどりして見まわすと、そこに、思いがけない美少女が笑《え》みをふくんで立っている。少女の足もとには、謎《なぞ》のような黒装束《くろしようぞく》の上下《うえした》がぬぎ捨てられてあった。
「や、あなたは……」
と忍剣《にんけん》はいぶかしそうに目をみはった。その問いにおうじて、少女は、
「わたくしはこの裾野《すその》の山大名《やまだいみよう》、根来小角《ねごろしようかく》の娘で、咲耶子《さくやこ》というものでございます」
と、はっきりしたこわ音《ね》でこたえた。
「そのあなたが、どうしてわたしをたすけてくださったのじゃ」
「ご僧《そう》は、伊那丸《いなまる》さまのお供《とも》のかたでございましょうが」
「そうです。若君のお身はどうなったか、それのみがしんぱいです。ごぞんじなら、教えていただきたい」
「伊那丸さまは、ご僧《そう》と一しょに斬りこんできた六部《ろくぶ》のひとが、おそろしい早技《はやわざ》でどこともなく連れていってしまいました。あの六部が、善人か悪人か、わたくしにもわからないのです。それをあなたにお知らせするために夜の明けるのを待っていたのです」
「えッ、ではやっぱりあの六部にしてやられたか。して六部めは、どっちへいったか、方角だけでも、ごぞんじありませんか」
「わたくしはそのまえに、富士川《ふじがわ》をくだって、東海道から京へでる関所札《せきしよふだ》をあげておきましたが、その道へ向かったかどうかわかりませぬ」
「しまった……?」
と、忍剣は吐息《といき》をもらした。と、咲耶子は、にわかに色をかえてせきだした。
「あれ、父の手下どもが、わたくしをたずねてむこうからくるようです。すこしも早くここをお立ちのきあそばしませ。わたくしは山へ帰りますが、かげながら、伊那丸《いなまる》さまのお行く末をいのっております」
「ではお別れといたそう。拙僧《せつそう》とて、安閑《あんかん》としておられる身ではありません」
ふたたび鉄杖《てつじよう》を手にした忍剣《にんけん》は、別れをつげて、恨《うら》みおおき裾野《すその》をあとに、いずこともなく草がくれに立ち去った。
——咲耶子《さくやこ》も、しばしのあいだは、そこに立ってうしろ姿《すがた》を見おくっていた。