朱柄の槍を持つ男
二
浜松《はままつ》の城下は、海道一の名将、徳川家康《とくがわいえやす》のいる都会である。その浜松は、ここ七日のあいだは、男山八幡《おとこやまはちまん》の祭なので、夜ごと町は、おびただしいにぎわいであった。
「どうですな、鎧屋《よろいや》さん、まだ売れませんか」
その八幡《はちまん》の玉垣《たまがき》の前へならんでいた夜店の燈籠売《とうろうう》りがとなりの者へはなしかけた。
「売れませんよ。今日で六日もだしていますがだめです」
と答えたのは、十八、九の若者で、たった一組の鎧《よろい》をあき箱の上にかざり、じぶんのそばには、一本の朱柄《あかえ》の槍《やり》を立てかけて、ぼんやりとそこに腰かけている。
「おまえさんの燈籠《とうろう》のほうは、女子供が相手だから、さだめし毎日たくさんの売上げがありましたろう」
「どうしてどうして、あの鬼玄蕃《おにげんば》というご城内の悪侍《わるざむらい》のために、今年はからきし、商《あきな》いがありませんでした」
「ゆうべもわたしがかえったあとで、だれかが、あいつらに斬られたということですが、ほんとでしょうかね」
「そんなことは珍しいことじゃありませんよ。店をメチャメチャにふみつぶされたり、片輪《かたわ》にされたかわいそうな人が、何人あるか知れやしません。まったく弱いものは生きていられない世の中ですね」
といってる口のそばから、ワーッという声が向こうからあがって、いままで歓楽《かんらく》の世界そのままであったにぎやかな町の灯《あか》りが、バタバタ消えてきた。
燈籠売《とうろうう》りははねあがってあおくなった。
「大へん大へん、鎧屋《よろいや》さん、はやく逃げたがいいぜ、鬼玄蕃がきやがったにちがいない」
にわか雨でもきたように、あたりの商人たちも、ともどもあわてさわいだが、かの若者だけは、腰も立てずに悠長《ゆうちよう》な顔をしていた。
案のじょう、そこへ旋風《つむじかぜ》のようにあばれまわってきた四、五人の侍《さむらい》がある。なかでも一きわすぐれた強そうな星川玄蕃《ほしかわげんば》は、つかつかと鎧屋のそばへよってきた。泥酔《でいすい》したほかの侍たちも、こいつはいいなぶりものだという顔をして、そこを取りまく。
「やい、町人。この槍《やり》はいくらだ」
と玄蕃《げんば》はいきなり若者のそばにあった朱柄《あかえ》の槍《やり》をつかんだ。
「それは売り物じゃありません」
にべもなく、ひッたくって槍をおきかえたかれは、あいかわらず、無神経《むしんけい》にすましこんでいた。
「けしからんやつだ、売り物でないものを、なぜ店へさらしておく。こいつ、客をつる山師《やまし》だな」
「槍はわしの持物です。どこへいくんだッて、この槍を手からはなさぬ性分《しようぶん》なんだからしかたがない」
「ではこの鎧《よろい》が売りものなのか。黒皮胴《くろかわどう》、萌黄縅《もえぎおどし》、なかなかりっぱなものだが、いったいいくらで売るのだ」
「それも売りたい品《しな》ではないが、お母《ふくろ》が病気なので、薬代《くすりだい》にこまるからやむなく手ばなすんです。酔《よ》ッぱらったみなさまがさわいでいると、せっかくのお客も逃げてしまいます。早くあっちへいってください」
「無愛想《ぶあいそう》なやつだ。買うからねだんを聞いているのだ」
「金子《きんす》五十枚、びた一|文《もん》もまかりません。はい」
「たかい、銅銭五十枚にいたせ、買ってくれる」
「いけません、まっぴらです」
「ふらちなやつだ。だれがこんなボロ鎧に、金五十枚をだすやつがあるか、バカめッ」
玄蕃《げんば》が土足《どそく》をあげて蹴《け》ったので、鎧《よろい》はガラガラとくずれて土まみれになった。こんならんぼうは、泰平《たいへい》の世には、めったに見られないが、あけくれ血や白刃《しらは》になれた戦国武士の悪い者のうちには、町人百姓を蛆虫《うじむし》とも思わないで、ややともすると、傲慢《ごうまん》な武力をもってかれらへのぞんでゆくものが多かった。
「山師《やまし》めッ」
ほかの武士《ぶし》どもも、口を合わせてののしった上に鎧《よろい》を踏《ふ》みちらして、どッと笑いながら立ちさろうとした時、若者の眉《まゆ》がピリッとあがった。——と思うまに、朱柄《あかえ》の槍《やり》は、いつか、その小脇《こわき》にひッかかえられていた。
「待てッ」
「なにッ」とふりかえりざま、刀の柄《つか》へ手をかけた五人の、おそろしい眼つき。
すわと、弥次馬《やじうま》は、潮《うしお》のごとくたちさわいだ。——と、その群集のなかから、まじろぎもせずに、朱柄の槍先をみつめていた白衣《びやくえ》の六部《ろくぶ》と、ひとりの貴公子《きこうし》ふうの少年とがあった。
玉垣《たまがき》を照らしている春日《かすが》燈籠《どうろう》の灯影《ほかげ》によく見ると、それこそ、裾野《すその》の危地《きち》を斬りやぶって、行方《ゆくえ》をくらました木隠龍太郎《こがくれりゆうたろう》と、武田伊那丸《たけだいなまる》のふたりであった。
六部の龍太郎は、はたして、なんの目的で伊那丸をうばいとってきたかわからないが、ここに立ったふたりのようすから察《さつ》すると、いつか伊那丸もかれを了解《りようかい》しているし、龍太郎も主君のごとく敬《うやま》っているようだ。しかしそれにしても武田の残党《ざんとう》を根だやしにするつもりである敵の本城地に、かく明からさまに姿をあらわしているのは、なんという大胆《だいたん》な行動であろう。今にもあれ、徳川家《とくがわけ》の目付役《めつけやく》か、酒井|黒具足組《くろぐそくぐみ》の目にでもふれたらば最後、ふたりの身の一大事となりはしまいか?
それはとにかく、いっぽう、鎧売《よろいう》りの若者は、はやくも、槍《やり》を、穂短《ほみじか》にしごいて、ジリジリと一寸にじりに五人の武士へ迫ってゆく——
「小僧ッ、気がちがったか」玄蕃《げんば》はののしった。
「気は狂《ちが》っていない! 町人のなかにも男はいる、天にかわって、汝《なんじ》らをこらしてやるのだ」
「なまいきなことをほざく下郎《げろう》だ、汝らがこのご城下で安穏《あんのん》にくらしていられるのは、みなわれわれが敵国と戦っている賜物《たまもの》だぞ。罰《ばち》あたりめ」
「町人どもへよい見せしめ、そのほそ首をぶッ飛ばしてくれよう」
「うごくなッ」
鬼玄蕃《おにげんば》をはじめ、一同の刀が、若者の手もとへ、ものすさまじく斬りこんだ。