怪船と巽小文治
一
伊那丸《いなまる》と龍太郎《りゆうたろう》が外濠《そとぼり》をわたって、脱出《だつしゆつ》したのを、やがて知った浜松城の武士たちは、にわかに、追手《おつて》を組織して、入野《いりの》の関《せき》へはしった。
ところが、すでに二刻《ふたとき》もまえに、蓑《みの》をきた両名のものが、この関《せき》へかかったが、足軽鑑札《あしがるかんさつ》を持っているので、夜中ではあったが、通したということなので、討手《うつて》のものは、地だんだをふんだ。そして、長駆《ちようく》して、さらに次の浜名湖《はまなこ》の渡し場へさしていそいだ。
いっぽう、伊那丸《いなまる》、龍太郎《りゆうたろう》のふたりは、しゅびよく、浜名湖のきしべまで落ちのびてきたが、一|難《なん》さってまた一難、ここまできながら、一|艘《そう》の船も見あたらないのでむなしくあっちこっちと、さまよっていた。
月はないが、空いちめんに磨《と》ぎだされ、かがやかしい星の光と、ゆるやかに波を縒《よ》る水明りに、湖は、夜明けのようにほの明るかった。すると、ギイ、ギイ……とどこからか、この静寂《しじま》をやぶる櫓《ろ》の音がしてきた。
「お、ありゃなんの船であろう?」
と伊那丸が指したほうを見ると、いましも、弁天島《べんてんじま》の岩かげをはなれた一艘の小船に、五、六人の武士が乗りこんで、こなたの岸へ舵《かじ》をむけてくる。
「いずれ徳川家《とくがわけ》の武士《ぶし》にちがいない。伊那丸さま、しばらくここへ」
と龍太郎はさしまねいて、ともにくさむらのなかへ身をしずめていると、まもなく船は岸について、黒装束《くろしようぞく》の者がバラバラと陸《おか》へとびあがり、口々になにかざわめき立ってゆく。
「せっかく仕返しにまいったのに、かんじんなやつがいなかったのはざんねんしごくであった」
「いつかまた、きゃつのすがたを見かけしだいに、ぶッた斬ってやるさ。それに、すまいもつきとめてある」
「あの小僧《こぞう》も、あとで家へかえって見たら、さだめしびっくりして泣きわめくにちがいない。それだけでも、まアまア、いちじの溜飲《りゆういん》がさがったというものだ」
ものかげに、人ありとも知らずにこう話しながら、浜松のほうへつれ立ってゆくのをやり過ごした龍太郎《りゆうたろう》と伊那丸《いなまる》は、そこを、すばやく飛びだして、かれらが乗りすてた船へとびうつるが早いか、力のかぎり櫓《ろ》をこいだ。
「龍太郎、いったいいまのは、何者であろう」
舳《みよし》に腰かけていた伊那丸が、ふといいだした。
「さて、この夜中に、黒装束《くろしようぞく》で横行《おうこう》するやからは、いずれ、盗賊《とうぞく》のたぐいであったかもしれませぬ」
「いや、わしはあのなかに、ききおぼえのある声をきいた。盗賊の群れではないと思う」
「はて……?」龍太郎は小首をかしげている。
「そうじゃ、ゆうべ、八幡前《はちまんまえ》で、鎧売《よろいう》りに斬りちらされた悪侍、あのときの者が二、三人はたしか今の群れにまじっていた」
「おお、そうおっしゃれば、いかにも似通《にかよ》うていたやつもおりましたな」
と、龍太郎はいつもながら、伊那丸のかしこさに舌《した》をまいた。そのまに、船は弁天島《べんてんじま》へこぎついた。
「若君——」と船をもやってふりかえる。
「浜松から遠くもない、こんな小島に長居《ながい》は危険です。わたくしの考えでは、夜のあけぬまえに、渥美《あつみ》の海へこぎだして、伊良湖崎《いらこざき》から志摩《しま》の国へわたるが一ばんご無事かとぞんじますが」
「どんな荒海、どんな嶮岨《けんそ》をこえてもいい。ただ一ときもはやく、かねがねそちが話したおん方にお目にかかり、また忍剣《にんけん》をたずね、その他の勇士を狩《か》りあつめて、この乱れた世を泰平《たいへい》にしずめるほか、伊那丸《いなまる》の望みはない」
「そのお心は、龍太郎《りゆうたろう》もおさっしいたしております。では、わたくしは弁天堂の禰宜《ねぎ》か、どこぞの漁師《りようし》をおこして食《た》べ物の用意をいたしてまいりまするから、しばらく船のなかでお待ちくださいまし」
と龍太郎は、ひとりで島へあがっていった。そしてあなたこなたを物色《ぶつしよく》してくると、白砂をしいた、まばらな松のなかにチラチラ灯《あか》りのもれている一軒の家が目についた。
「漁師の家と見える、ひとつ、訪《おとず》れてみよう」
と龍太郎は、ツカツカと軒下へきて、開けっぱなしになっている雨戸の口からなかをのぞいてみると、うすぐらい灯《ともしび》のそばに、ひとりの男が、朱《あけ》にそまった老婆《ろうば》の死骸《しがい》を抱きしめたまま、よよと、男泣きに泣いているのであった。