水火陣法くらべ
二
咲耶子《さくやこ》がふった横笛《よこぶえ》の合図《あいず》とともに、押しつつんできた人数はかれこれ八、九十人、それに斬《き》りむかっていった穴山方《あなやまがた》の郎党《ろうどう》もおよそ七、八十人、数の上からこれをみれば、まさに、そうほう互角《ごかく》の対陣《たいじん》であった。
しかし、一ぽうは勇あって訓練《くんれん》なき野武士《のぶし》のあつまり。こなたは兵法《へいほう》のかけ引き、実戦《じつせん》の経験もたしかな兵である。梅雪入道《ばいせつにゆうどう》ならずとも、とうぜん、勝ちは穴山方にありと信じられていた。ところが形勢《けいせい》はガラリとかわって、なにごとぞ、四天王《してんのう》以下の面々は名もなき野武士の切《き》ッ先《さき》にかけまわされ、胡蝶《こちよう》の陣《じん》の変化自在《へんげじざい》の陣法にげんわくされて、浮き足みだしてくずれ立ってきた。と見るや、怒《いか》りたった入道は、
「ええ腑甲斐《ふがい》のない郎党《ろうどう》ども、このうえは、梅雪みずからけちらしてくれよう!」
両の手綱《たづな》を左の手にあつめ、右手に陣刀《じんとう》をふりかざしてあわや、乱軍のなかへ馬首《ばしゆ》をむけてかけ入ろうとした。
とそのとき、
「しばらくしばらく、そもわが君は、お命《いのち》をいずこへ捨てにいかれるお心でござるか!」
声たからかに呼《よ》びとめた者がある。
「なに?」ふりかえってみると、それは、伊那丸《いなまる》の駕籠《かご》の上に立った小幡民部《こばたみんぶ》。梅雪《ばいせつ》はせきこんで、
「やあ、民蔵《たみぞう》、汝《なんじ》はなにをもって、さような不吉《ふきつ》をもうすのじゃ」
「されば、殿の御身《おんみ》を大切と思えばこそ」
「して、なんのしさいがあって」
「眼を大にしてごらんあれ。敵は野武士《のぶし》といいながら、神変《しんぺん》ふしぎな少女の陣法によってうごくもの、これすなわち奇兵《きへい》でござる。あなどってその策《さく》におちいるときは、殿のお命《いのち》とてあやうきこと明らかでござりまする」
「うーむ、してかれの陣法《じんぽう》とは」
「伏現自在《ふくげんじざい》の胡蝶《こちよう》の陣《じん》」
「やぶる手策《てだて》は?」
「ござりませぬ」
「ばかなッ」
「うそとおぼし召《め》すか」
「おおさ、年端《としは》もゆかぬ女童《めわらべ》が指揮する野武士《のぶし》の百人足らず、なんで破れぬことがあろうか」
「ではしばらくここにて四ほうを観望《かんぼう》なさるがなにより。おお佐分利五郎次《さぶりごろうじ》の組子《くみこ》はやぶれた、ああ足助主水正《あすけもんどのしよう》もたちまち袋《ふくろ》のねずみ……」
「なんの、余《よ》が四天王《してんのう》じゃ、いまにきっと盛《も》り返して、あの手の野武士をみな殺しにするであろうわ」
「危《あや》ういかな、危ういかな、かしこの窪地《くぼち》へ追いこまれた猪子伴作《いのこばんさく》、天野刑部《あまのぎようぶ》、その他十七、八名の味方の者どもこそ、すんでに敵の術中《じゆつちゆう》におちいり、みな殺しとなるばかり」
「や、や、や、や、や!」
「おお! 殿《との》にもご用意あれや、早くも伊那丸《いなまる》の駕籠《かご》を目がけて、総勢《そうぜい》の力をあつめてくるような敵の奇変《きへん》と見えまするぞ」
「お、お、お、民蔵《たみぞう》民蔵、汝《なんじ》になんぞ策《さく》はないか」
梅雪《ばいせつ》のようすは、にわかにうろたえて見えだした。
「おそれながら、しばしのあいだ、殿の采配《さいはい》を拙者《せつしや》におかしたまわるなら、かならず、かれの奇襲《きしゆう》をやぶって味方の勝利となし、なお、野武士を指揮《しき》なすあやしき少女をも生《い》けどってごらんに入れます」
「ゆるす、すこしも早く味方の者を救《すく》いとらせい」
さしも強情《ごうじよう》な穴山梅雪《あなやまばいせつ》も、論《ろん》より証拠《しようこ》、民部《みんぶ》のことばのとおり、味方がさんざんな敗北《はいぼく》となってきたのを見て、もう|ゆうよ《ヽヽヽ》もならなくなったのであろう。こなたへ駒《こま》を寄せてきて、小幡民部《こばたみんぶ》の手へ采配《さいはい》をさずけた。
「ごめん」
受けとって押しいただいた民部《みんぶ》は、駕籠《かご》の上に立ったまま、八ぽうの戦機をきッと見渡したのち、おごそかに軍師《ぐんし》たるの姿勢《しせい》をとり、采《さい》の|さばき《ヽヽヽ》もあざやかに、
さッ、さッ、さッ。
虚空《こくう》に半円をえがいて、風をきること三度《みたび》。
ああなんという見事さ、それこそ、本朝《ほんちよう》の諸葛亮《しよかつりよう》か孫呉《そんご》かといわれた甲州流の軍学家《ぐんがくか》、小幡景憲《こばたかげのり》の軍配《ぐんばい》ぶりとそッくりそのまま。
「や?」
よもや、新参《しんざん》の民蔵《たみぞう》が、その人の一|子《し》、民部《みんぶ》であろうとは、夢《ゆめ》にも知らない梅雪入道《ばいせつにゆうどう》、おもわず驚嘆《きようたん》の声をもらしてしまった。