悪入道の末路
一
征矢《そや》にくるった馬の上から、もんどり打っておとされた穴山梅雪《あなやまばいせつ》は、朱《あけ》にそんだ身を草むらのなかより起すがはやいか、無我夢中《むがむちゆう》のさまで、道もない雑木帯《ぞうきたい》へ逃げこんだ。
しずかなること一瞬《いつしゆん》、たちまち、パパパパパパパッ! と地を打ってきた蹄鉄《ていてつ》のひびき、天馬飛空《てんばひくう》のような勢いをもって乗りつけてきたのは木隠龍太郎《こがくれりゆうたろう》である。怨敵《おんてき》梅雪が道なきしげみへ逃《に》げこんだと見るや、ヒラリと黒鹿毛《くろかげ》を乗りすてて右手《めて》なる戒刀《かいとう》を引ッさげたまま、
「卑怯《ひきよう》なやつ、未練なやつ、一国の主《あるじ》ともあろうものが恥《はじ》を知れや、かえせ梅雪! かえせ梅雪!」
と呼《よ》ばわりながら、身を没《ぼつ》するような熊笹《くまざさ》のなかを追いのぼっていった。
だが、梅雪のほうはそれに耳をかすどころでなく、命《いのち》が助かりたいの一心で、丘のいただき近くまでよじのぼってくると、不意に目の前へ、猿《さる》かむささびか雷鳥《らいちよう》か、上なる岩のいただきから一|足《そく》とびにぱッととびおりてきたものがある。
「あッ」
おびえきっている梅雪の心は、ふたたびギョッとして立ちすくんだけれど、ふと驚異《きようい》のものを見なおすとともに、これこそ天来《てんらい》のすくいか、地獄《じごく》に仏《ほとけ》かとこおどりした。それはたくましい重籐《しげどう》の弓を小わきに持った若い、そしてりんりんたる武芸者《ぶげいしや》であるから。
梅雪は本能的《ほんのうてき》にさけんだ。
「おおよいところで! 余《よ》は甲州|北郡《きたごおり》の領主《りようしゆ》穴山梅雪《あなやまばいせつ》じゃ、いまわしのあとより追いかけてくる裾野《すその》の盗賊《とうぞく》どもを防いでくれ、この難儀《なんぎ》を救《すく》うてくれたら、千|石《ごく》二千|石《ごく》の旗本にも取り立て得させよう。いいや恩賞は望みしだい!」
「さては遠くから見た目にたがわず、そのほうが穴山梅雪入道か」
「かかる姿をしているからとて疑うな、余《よ》がその梅雪にちがいないのじゃ、そちが一生の出世《しゆつせ》の蔓《つる》は、いまとせまったわしの危急《ききゆう》を救《すく》ってくれることにあるぞ」
「だまれ、やかましいわいッ」わかき武芸者《ぶげいしや》は、その頬《ほお》ぺたをはりつけんばかりにどなりつけて、
「音にひびいた甲州の悪入道。よしやどれほどの宝《たから》を捧《ささ》げてこようと、なんで汝《なんじ》らごとき犬侍《いぬざむらい》のくされ扶持《ぶち》をうけようか、たいがいこんなことであろうと、汝《なんじ》の逃足《にげあし》へ遠矢を射《い》たのはかくもうすそれがしなのだ」
「げッ、さてはおのれも」
絶望、驚愕《きようがく》、憤怒《ふんぬ》!
奈落《ならく》へ突きのめされた梅雪は、あたかも虎穴《こけつ》をのがれんとして、龍淵《りゆうえん》におちたような破滅《はめつ》とはなった。もうこのうえはいちかばちか、命《いのち》はただそれ自分をたのむことにあるのみだ。
「うーム。ようもじゃま立てをいたしたな! 老《お》いたりといえども穴山梅雪《あなやまばいせつ》、その素《そ》ッ首をはねとばしてくれよう」
「ハハハハハハ、片腹《かたはら》いたい臆病者《おくびようもの》の|たわ言《ヽヽごと》こそ、あわれあわれ、もう汝《なんじ》の天命は、ここにつきているのだ、男らしく観念してしまえ」
「エエ、いわしておけば」
死身《しにみ》の勇を奮《ふる》いおこした梅雪の手は、かッと、陣刀の柄《つか》に鳴って、あなや、皎刀《こうとう》の鞘《さや》ばしッて飛びくること六、七|尺《しやく》! オオッとばかり、武芸者《ぶげいしや》のまッこうのぞんで斬り下げてきた。
「笑止《しようし》や、蟷螂《とうろう》の斧《おの》だ」
ニヤリと笑った若き武芸者は、さわぐ気色《けしき》もなく身をかわして、左手《ゆんで》に持った弓の弦《つる》がヒューッと鳴るほどたたきつけた。
「あッ」と梅雪は二の太刀を狂わせ、熊笹《くまざさ》の根につまずいてよろよろとした。
「老いぼれ」
すかさずその襟《えり》がみをムズとつかんだ武芸者は、その時ガサガサと丘の下からかけあがってくる木隠龍太郎《こがくれりゆうたろう》の姿《すがた》をみとめた。
「あいや、それへおいであるのは、武田伊那丸君《たけだいなまるぎみ》のお身内《みうち》でござらぬか」
「オオ!」
びっくりして、高き岩頭をふりあおいだ龍太郎は、見なれぬ武芸者《ぶげいしや》のことばをあやしみながら、
「いかにも、伊那丸さまのお傅人《もりびと》、木隠龍太郎という者でござるが、もしや、貴殿《きでん》は、このなかへ逃げこんだ血まみれなる法師武者《ほうしむしや》のすがたをお見かけではなかったか」
「その入道なれば、わざわざこれまでお登りなさるまでもないこと」
「や! では、そこにおさえているやつが?」
「オオ、山県蔦之助《やまがたつたのすけ》が伊那丸君へ、初見参《ういげんざん》のごあいさつがわりに、ただいまそれへおとどけもうすでござろう」
いうかと思えば、若き武芸者——それはかの近江《おうみ》の住人山県蔦之助——カラリと左手の弓を投げすてて、梅雪入道《ばいせつにゆうどう》の体に双手《もろて》をかけ、なんの苦もなくゆらッとばかり目の上にさしあげて、
「それ、お受けあれや龍太郎どの!」声と一しょに梅雪の体を、丘《おか》の下へ、投げとばしてきた。