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神州天馬侠65
日期:2018-11-30 18:49  点击:297
 奇童と怪賊問答
 
    一
 
 富士《ふじ》の裾野《すその》に、数千人の野武士《のぶし》をやしなっていた山大名《やまだいみよう》の根来小角《ねごろしようかく》は亡《ほろ》びてしまった。しかし、野盗《やとう》の巣《す》である人穴《ひとあな》の殿堂《でんどう》はいぜんとして、小角の滅亡後《めつぼうご》にも、かわっている者があった。すなわち、和田呂宋兵衛《わだるそんべえ》という怪人《かいじん》である。
 あれほどしたたかな小角が、どうして亡《ほろぼ》されたかといえば、じぶんの腹心とたのんでいた呂宋兵衛にうらぎられたがため、——つまり飼《か》い犬《いぬ》に手をかまれたのと同じことだ。
 呂宋兵衛というのは、仲間《なかま》の異名《いみよう》である。
 かれは、和田門兵衛《わだもんべえ》という、長崎からこの土地へ流れてきた南蛮《なんばん》の混血児《あいのこ》であった。右の腕には十字架《じゆうじか》、左の腕には呂宋文字《るそんもじ》のいれずみをしているところから、野武士《のぶし》の仲間《なかま》では門兵衛を呂宋兵衛とよびならわしていた。また碧瞳紅毛《へきどうこうもう》、金《きん》蜘蛛《ぐも》のようなこの魁偉《かいい》な容貌《ようぼう》にも、呂宋兵衛の名のほうがふさわしかった。
 呂宋兵衛は富士の人穴《ひとあな》へきてから、たちまち小角《しようかく》の無二《むに》の者となった。かれの父が、南蛮人《なんばんじん》のキリシタンであったから、呂宋兵衛もはやくから修道者《イルマン》となり、いわゆる、切支丹流《キリシタンりゆう》の幻術《げんじゆつ》をきわめていた。小角はそこを見こんで重用した。
 しかし根《ね》が邪悪《じやあく》な呂宋兵衛は、たちまちそれにつけあがって陰謀《いんぼう》をたくらみ、策《さく》をもって、小角を殺し、配下《はいか》の野武士《のぶし》を手なずけ、人穴の殿堂《でんどう》を完全に乗っ取ってしまった。
 小角のひとり娘の咲耶子《さくやこ》は、あやうく父とともに、かれの毒手《どくしゆ》にかかるところだったが、節《せつ》を変《か》えぬ七、八十人の野武士もあって、ともに裾野《すその》へかくれた。そしていかなる苦しみをなめても、呂宋兵衛をうちとり、小角の霊《れい》をなぐさめなければならぬと、毎日|広野《こうや》へでて、武技《ぶぎ》をねり、陣法の工夫《くふう》に他念《たねん》がなかった。
 ——その健気《けなげ》な乙女《おとめ》ごころを天もあわれんだものか、彼女はゆくりなくも、きょう伊那丸《いなまる》と一党《いつとう》の人々に落ちあうことができた。
 かつて、伊那丸が人穴の殿堂にとらわれたときに、咲耶子のやさしい手にすくわれたことがある。いや、そんなことがなくっても、思いやりのふかい伊那丸と、侠勇勃々《きようゆうぼつぼつ》たる一党の勇士たちは、かならずや、咲耶子の味方となることを辞《じ》せぬであろう。
 一ぽう、山大名の呂宋兵衛は裾野《すその》へかくれた咲耶子の行動にゆだんせず、毎日十数人の諜者《ちようじや》をはなっている。
 きょうも、途中雷雨にあって、ズブぬれとなりながら野馬《のうま》をとばして人穴へかえってきた三人の諜者《ちようじや》は、すぐ呂宋兵衛《るそんべえ》のまえへでて、五湖のあたりにおこった急変を注進《ちゆうしん》した。
「おかしら、一大事でございます」
「なに、一大事だ」
 身はぜいたくをしているが、心にはたえず不安のある呂宋兵衛は、琥珀《こはく》の盃《さかずき》を手からおとし、さらに、諜者《ちようじや》のさぐってきたちくいち——伊那丸《いなまる》と咲耶子《さくやこ》のうごきを聞くにおよんで、その顔色はいちだんと恐怖的《きようふてき》になった。
「むウ、ではなにか、武田伊那丸のやつらが、穴山梅雪《あなやまばいせつ》を討《う》ちとり、また湖水の底から宝物《ほうもつ》の石櫃《いしびつ》を取りだしたというのか。あのなかの御旗楯無《みはたたてなし》は、とッくにこっちで入れかえて、売りとばしてしまったからいいようなものの、それと知ったら、伊那丸のやつも咲耶子も、一しょになってここへ押しよせてくることは必定《ひつじよう》だ。こいつは大敵、ゆだんがならねえ、すぐ手配《てくば》りして、要所《ようしよ》要所を厳重《げんじゆう》にかためろ」
 立ちあがって、わめくようにいいつけた時、石門から取次ぎを受けた野武士《のぶし》のひとりが、ばらばらと進んできて口ぜわしく、
「おかしらへ申しあげます。ただいま、一の門へ、穴山梅雪の残党《ざんとう》が二、三十人まいって、ぜひお願いがあるといってきましたが、どうしたものでございましょうか」
「穴山の残党なら、湖畔《こはん》で伊那丸のために討ちもらされた落武者《おちむしや》だろう。こんなときには、少しのやつも味方の端《はし》だ。そのなかからおもだった者だけ二、三人とおしてみろ」
「承知《しようち》しました」
 とひッ返した手下の者は、やがて、殿堂《でんどう》の広間へ、ふたりの武士をあんないしてきた。呂宋兵衛《るそんべえ》は上段の席から鷹揚《おうよう》にながめて、
「富士浅間《ふじせんげん》の山大名和田門兵衛《やまだいみようわだもんべえ》は身どもでござるが、おたずねなされたご用のおもむきは?」
「さっそくのご会見、かたじけのうぞんじます。じつは拙者《せつしや》は、穴山《あなやま》の四天王《してんのう》足助主水正《あすけもんどのしよう》ともうしまする者」
「また某《それがし》は、佐分利《さぶり》五郎次でござる、すでにごぞんじであろうが、ざんねんながら、伊那丸与党《いなまるよとう》の奸計《かんけい》にかかり、主君の梅雪《ばいせつ》は討《う》たれ、われわれ四天王《してんのう》のうちたる天野《あまの》、猪子《いのこ》の両名まであえなき最期《さいご》をとげました」
「その儀《ぎ》はいま、手下の者からもくわしくうけたまわった」
「主君のほろびたうえは、甲斐《かい》へかえるも都へかえるも詮《せん》なきこと、追腹《おいばら》きって相果てようかと思いましたが、それも犬死《いぬじに》、ことによるべなき残り二、三十人の郎党《ろうどう》どもがふびんゆえ、それらの者を集めておとずれまいったしだい、どうぞ、われわれ両名をはじめ一同を、この山寨《さんさい》におとめおきくださるまいか」
「オオ、それはそれはご心中おさっしもうす、武士は相身《あいみ》たがい、かならずお力になりもうそう」
 呂宋兵衛は、ひそかによろこんだ。
 折もおり、いまのこの場合、二勇士が、場なれた郎党《ろうどう》を二、三十人も連れて、味方についてくるとはなんたる僥倖《ぎようこう》、かれは足助《あすけ》と佐分利《さぶり》に客分の資格《しかく》をあたえ、下へもおかずもてなししたうえ、にわかに気強くなって、軍議の開催《かいさい》をふれだした。
 妖韻《よういん》のこもった鐘《かね》がゴーンと鳴りわたると、鎧《よろい》を着た者、雑服《ぞうふく》の者、陸続《りくぞく》として軍議室にはいってくる。
 そこは四面三十七|間《けん》、百二十|畳《じよう》の籐《とう》の筵《むしろ》をしき、黒く太やかな円柱《えんちゆう》左右に十本ずつの大殿堂。一ぽうの中庭からほのかな日光ははいるが、座中|陰惨《いんさん》としてうす暗く、昼から短檠《たんけい》をともした赤い光に、ぼうと照らしだされた者は、みなこれ、呂宋兵衛《るそんべえ》の腹心の強者《つわもの》ぞろい。
「わらうべし、わらうべし、乳《ちち》くさい伊那丸《いなまる》や咲耶子《さくやこ》などが、烏合《うごう》の小勢でよせまいろうとて、なにをぎょうぎょうしい軍議などにおよぼうか。拙者《せつしや》に二、三百の者をおあずけくださるならば、ただひと押しにけちらしてみせようわ」
 破鐘《われがね》のような声でいう者がある。
 見れば山寨《さんさい》第一の膂力《りよりよく》、熊のごとき髯《ひげ》をたくわえている轟又八《とどろきまたはち》だった。すると一ぽうから、軍謀《ぐんぼう》第一のきこえある丹羽昌仙《にわしようせん》がしかつめらしく、
「おひかえなさい轟《とどろき》、敵をあなどることはすでに亡兆《ぼうちよう》でござるぞ。伊那丸は有名なる信玄《しんげん》の孫、兵法に精通《せいつう》、つきしたがう傅人《もりびと》もみな稀代《きたい》の勇士ときく。すべからくこの天嶮《てんけん》に拠《よ》って、かれのきたるところを策《さく》によって討つが上乗《じようじよう》」
「やアまた、昌仙《しようせん》の臆病《おくびよう》意見、富士の山大名《やまだいみよう》ともある者が、あれしきの者に恐れをなしたといわれては、四|隣《りん》の国へもの笑い。これよりすぐに、五湖へまいって、からめ捕《と》るこそ、上策《じようさく》」
「いや小勢とはいいながら、かれは智《ち》あり仁《じん》あり勇ある者ども。平野の戦《いくさ》はあやうし、あやうし」
「くどい、拙者《せつしや》はどこまでも討《う》ってでる」
「だまれ轟《とどろき》、まだ衆議《しゆうぎ》も決せぬうちに、僭越千万《せんえつせんばん》な」
 両名の争論につづいて、一|統《とう》の意見も二派《ふたは》にわかれ、座中なんとなく騒然としてきたころ——
 これまた何たる皮肉《ひにく》! 空から中庭のまん中へ、ズシーンとばかり飛び降りてきた、雷獣《らいじゆう》のような一個の奇童《きどう》がある。

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