早足の燕作
一
夜もすがら、百八ヵ所で焚《た》きあかしているかがり火のため、人穴城《ひとあなじよう》の殿堂《でんどう》は、さながら、地獄《じごく》の祭のように赤い。
和田呂宋兵衛《わだるそんべえ》たちが、おおきな十字架《じゆうじか》をささげて、層雲《そううん》くずれの祈祷《きとう》にでていったあとは、腹心の轟又八《とどろきまたはち》が軍奉行《いくさぶぎよう》の格《かく》になって、伊那丸《いなまる》と咲耶子《さくやこ》をうつべき、明日《あす》の作戦に忙殺《ぼうさつ》されていた。
「東の空がしらみだしたら一番|貝《がい》、勢《せい》ぞろいの用意とおもえ。富士川が見えだしたら、二番貝で部署《ぶしよ》につき、三番貝はおれがふく。同時に、八方から裾野《すその》へくだって、時刻時刻の合図《あいず》とともに、遠巻《とおま》きの輪《わ》をちぢめて、ひとりあまさず討ってとる計略《けいりやく》。かならずこの手はずをわすれるなよ」
一同へ軍令をおわった轟又八は、やや得意ないろで広場にたち、あすの天候を観測《かんそく》するらしいていで、暗天を見あげていたが、ふと、なにがしゃくにさわったのか、
「ふふん、この闇《やみ》の晩に、なにが見えるんだ。バカ軍師《ぐんし》め、人のせわしさも知らずに、まだあんなところでのんき面《づら》をかまえていやがる」
上のほうへはきだすようにつぶやき、そのまま、殿堂の物《もの》の具部屋《ぐべや》へ隠れてしまった。
又八をして、ぷんぷんと怒らせたものとは、いったいなんであろうか——と空をあおいで見ると、炎々《えんえん》とのぼるかがりの煙にいぶされて、高い櫓《やぐら》がそびえていた。そのてッぺんに、さっきから、ひとりの影が立っている。
山寨《さんさい》の軍師、丹羽昌仙《にわしようせん》であった。
轟《とどろき》又八がバカ軍師とののしったわけである。昼間《ひるま》から、攻守両意見にわかれて、反対していたのだ。そこで昌仙《しようせん》は詮《せん》なきこととあきらめたか、呂宋兵衛《るそんべえ》が裾野《すその》をでるとすぐ、軍備にはさらにたずさわらず、継子《ままこ》のように、ひとり望楼《ぼうろう》のいただきへあがって、寂然《じやくねん》とたちすくみ、四|顧《こ》暗々《あんあん》たる裾野をにらみつめている。
かれは、さっさつたる高きところの風に吹かれながら、そも、なにをみつめているのだろうか。
星こそあれ、無月荒涼《むげつこうりよう》のやみよ。——おお、はるかに焔《ほのお》の列が蜿々《えんえん》とうごいていく。呂宋兵衛らの祈祷《きとう》の群れだ、火の行動は人の行動。ちりぢりになる時も、かたまる時も、しずかな時も、さわぐ時も、なるほど、ここにあれば手にとるごとくわかる。
と、なににおどろいたものか、昌仙の顔いろが、サッと変って、ふいに、
「あああ」
と望楼の柱につかまりながら身をのばした。見れば、はるかかなたの火が、風に吹き散らされた蛍《ほたる》のごとく、算《さん》をみだしてきはじめたのだ。
「むウ」
思わず重くるしいうめき声。
「しまった! あの竹童《ちくどう》という小僧《こぞう》の奇策《きさく》にはかられた。もうおそい——」
と、かれがもらした痛嘆《つうたん》のおわるかおわらぬうち、遠き闇《やみ》にあたって、ズーンと立った一道の火柱《ひばしら》、それが消えると、一点の微光《びこう》もあまさず、すべてを暗黒がつつんでしまった。
「それ見ろ! このほうがいったとおりだッ」
昌仙《しようせん》は手をのばして、いきなり天井《てんじよう》へ飛びつき、そこにたれていた縄《なわ》の端《はし》をグイと引いた。と、——人穴城《ひとあなじよう》の八方にしかけてある自鳴鉦《じめいしよう》がいっせいに、ジジジジジジジジッ……とけたたましく鳴り渡る。
これ、大手《おおて》一の門《もん》二の門三の門、人穴門《ひとあなもん》、水門、間道門《かんどうもん》の四つの口、すべて一時に護《まも》るための手配《てはい》。いうまでもなく出門《しゆつもん》は厳禁。無断《むだん》持場《もちば》をうごくべからず——の軍師合図《ぐんしあいず》。
さらに、櫓番《やぐらばん》へ声をかけて、部下の一人で、もと道中かせぎの町人であった、燕作《えんさく》という者をよびあげ、かねて用意しておいたらしい一通の密書《みつしよ》をさずけた。
そして口ぜわしく、
「これを一|刻《こく》もはやく羽柴秀吉《はしばひでよし》どのにわたしてこい。ぐずぐずいたしておると、この山寨《さんさい》から一歩もでられなくなる。すぐいけよ、なんのしたくもしていてはならんぞ」
と、いいつけた。
燕作は、野武士《のぶし》の仲間から、韋駄天《いだてん》といわれているほど足早《あしばや》な男。頭《ず》をさげて、昌仙からうけた密書をふところへ深くねじおさめ、
「へい、承知《しようち》いたしました。ですが、その秀吉さまは、山崎の合戦《かつせん》ののち、いったいどこのお城にお住《すま》いでござりましょうか」
「近江《おうみ》の安土《あづち》か、長浜の城か、あるいは京都にご滞在《たいざい》か、まずこの三つを目指《めざ》していけ」
「合点《がつてん》です。では——」
と立って、クルリとむきなおるが早いか、韋駄天《いだてん》の名にそむかず、飛鳥《ひちよう》のように望楼《ぼうろう》をかけおりていった。