隠密落とし
一
「拙者《せつしや》をバカともうしたのはきさまだな」
龍太郎《りゆうたろう》がにらみつけると、蛾次郎《がじろう》はいっこうにこたえのないふうで、ゲタゲタと笑いながら、
「ああおれだよ」
「ふらちなやつ、なんでさようなことをぬかした」
「だってお侍《さむらい》さんは、小太郎山《こたろうざん》へいくんだっていうのに、とんでもないほうへ馬の首をむけていそぎだしたから笑ったんだ」
「ふーむ、ではこっちへむかっていってはわるいか」
「悪いことはないけれど、この蘆川《あしかわ》を大まわりして、甲州|街道《かいどう》をグルリとまわった日には、半日もよけいな道を歩かなけりゃならない。それより、この川を乗っきって駿州路《すんしゆうじ》を左にぬけ、野之瀬《ののせ》、丸山、鷲《わし》の巣《す》とでて、野呂川《のろがわ》を見さえすれば、すぐそこが、小太郎山じゃないか」
と、すこし抜けている蛾次郎も、住みなれた土地の地理だけに、くわしく弁《べん》じた。
「なるほど、これは拙者《せつしや》がこのへんに暗いため、無益《むえき》の遠路《とおみち》につかれていたかも知れぬ。しかし、この激流を、馬で乗っきる場所があろうか」
「あるとも、水馬《すいば》さえ達者《たつしや》なら、らくらくとこせる瀞《とろ》がある。ここだよ、お侍《さむらい》さん——」
と蛾次郎《がじろう》はまえに水切りをやっていたところを教えた。
「む。なるほど、ここは深そうだ、川幅《かわはば》も四、五十|間《けん》、これくらいなところなら乗っ切れぬこともあるまい」
と龍太郎はよろこんで、浅瀬《あさせ》から項羽《こうう》を乗りいれ、ザブザブ、ザブ……と水を切っていくうちに紺碧《こんぺき》の瀞《とろ》をあざやかに乗りきって、たちまち向こう岸へ泳ぎ着いてしまった。
「ありがとう」
と、それを見送るとほッとしたさまで、竹童《ちくどう》が礼をいうと、蛾次郎《がじろう》はクスンと笑って、
「なにがありがてえんだ、おめえに教えてやったわけじゃあない」といった。
竹童はじぶんより三歳か四歳上らしい蛾次郎を見上げて、へんなやつだとおもった。
「そのことじゃないよ、さっきおいらが悪いやつに、あやうく殺されそうになったところを、石を投げて逃《に》がしてくれたから、その礼《れい》をいったのさ」
「あんなことはお茶の子だ、こう見えてもおれは石投げ蛾次郎といわれるくらい、礫《つぶて》を打つのは名人なんだぜ」
と、ボロ鞘《ざや》の刀をひねくッて、竹童《ちくどう》に見せびらかした。
「蛾次郎《がじろう》さんの家《うち》はどこだい?」
「おれか、おれは裾野《すその》の折角村《おりかどむら》だ、だがいまあの村には、桑畑《くわばたけ》の蚕婆《かいこばばあ》と、おれの親方だけしか住んでいないから人無村《ひとなしむら》というほうがほんとうだ」
「親方っていう人は、あの村でなにをしているんだい」
「知らねえのかおめえは、おれの親方は、鼻かけ卜斎《ぼくさい》っていう有名な鏃鍛冶《やじりかじ》だよ。おれの親方の鍛《う》った矢の根は、南蛮鉄《なんばんてつ》でも射抜《いぬ》いてしまうってんで、ほうぼうの大名《だいみよう》から何万ていう仕事がきているんだ。おれはそこの秘蔵《ひぞう》弟子だ」
「偉《えら》いなあ——」竹童《ちくどう》はわざと仰山《ぎようさん》に感心して、
「じゃ、蛾次郎さんとこには、松明《たいまつ》なんかくさるほどあるだろうな」
「あるとも、あんなものなら薪《まき》にするほどあらあ」
「おいらに二十本ばかりそっとくれないか」
「やってもいいけれど、そのかわりおれになにをくれる」
と蛾次郎はずるい目を光らした。
竹童はとうわくした。お金もない。刀もない。なんにもない。持っているのは相変らずの棒切れ一本だ。そこで、
「お礼《れい》には、鷲《わし》に乗せて遊ばしてやら。ね、鷲《わし》にのって天を翔《か》けるんだぜ。こんなおもしろいことはない」
といった。
「ほんとうかい、おい!」蛾次郎《がじろう》は、目の玉をグルグルさせた。
「うそなんかいうものか、松明《たいまつ》さえ持ってきてくれれば乗せてやる。そのかわり夜でなくッちゃいけない」
「おれも夜の方がつごうがいい。そしておまえはどこに待っている?」
「白旗《しらはた》の宮《みや》の森で待ってら、まちがいなくくるかい」
「いくとも! じゃ今夜、松明《たいまつ》を二十本持っていったら、きっと鷲《わし》に乗せてくれるだろうな、うそをいうと承知《しようち》しないぜ、おい! おれは切れる刀を差しているんだからな」
と、また|あけび巻《ヽヽヽまき》の山刀《やまがたな》を自慢《じまん》した。