鼻かけ卜斎と泣き虫蛾次郎
三
菊池半助《きくちはんすけ》が、身をすくませたのも道理、中二階の天井《てんじよう》には、いちめんの鉄板《てつぱん》が張ってあって、それに、氷柱《つらら》のような、無数の鏃《やじり》が植えてあるのだ。
剣の切《き》ッ先よりするどい鏃は、ちょうど、あおむけになっている半助の真上に、ドギドギとぶきみな光をならべている。おお、もしその鉄板が、いちどおちてこようものなら、いかに隠身《おんしん》自由、怪力無双《かいりきむそう》なものでも、五体は蜂《はち》の巣《す》となって圧死《あつし》してしまうであろう。
「釣《つ》り天井《てんじよう》——」
半助は、とっさに壁ぎわへ、身をすりよせた。
このおそろしい部屋へじぶんをあんないしたからには鼻かけ卜斎《ぼくさい》の八風斎《はつぷうさい》は、すでに徳川家の伊賀衆《いがしゆう》菊池半助ということを見破ったにそういない——と半助は、こころみに梯子口《はしごぐち》をのぞいてみると、はたしていつのまにか梯子はとりはずされて、下には、あやしい陥穽《おとしあな》が伏《ふ》せてあるようす、ほかに出口はむろんない。
半助は絶体絶命《ぜつたいぜつめい》となった。
けれど五本の指と二本の足が、ままになる以上、こんなことで、おめおめ命《いのち》をおとすような菊池半助ではない。
かれは脇差《わきざし》をぬいて、いきなり、あっちこっちの壁をズブズブとつき刺した。そしてそとへ通じるところをさぐりあて、たちまち二尺四方ぐらいの穴《あな》を切りぬいたかとおもうと、ほとんど、猫《ねこ》が障子《しようじ》の穴をすりぬけるようにするりと身をはいだして、一|丈《じよう》四、五|尺《しやく》の上から大地へポンと跳《と》びおりた。そして、
「ここだな……」と、すすり泣きのもれている物置小屋の戸をねじあけて、なかにいる蛾次郎《がじろう》を助けだした。
「あッ、お武家さん——」
蛾次郎が素《す》ッ頓狂《とんきよう》な声をだす口をおさえて、
「しずかにせい。さっきそのほうがおれをたすけてくれた返礼に、こんどはきさまを救ってやる。徳川家へまいれば伊賀衆《いがしゆう》の組頭《くみがしら》、いくらでも取り立ててやるから一しょについてくるがいい」
「あ、ありがとう。おれもこんなやかましい親方にくッついているのはいやでいやでたまらないんだ」
「む、卜斎《ぼくさい》に気取《けど》られぬうち、そッと馬小屋から足のはやいのを一ぴきひっぱりだしてこい」
「いいとも、馬ぐらい盗みだすのは、ぞうさもないよ」
蛾次郎《がじろう》が闇《やみ》のなかへ飛んでいくと、そのとたんに半助《はんすけ》のあたまの上で、ドドドドスン! というすさまじい家鳴《やな》り震動《しんどう》。ふり仰《あお》いでみると、いまかれがのがれだした壁の穴から、濛々《もうもう》たる土煙が噴《ふ》きだしている。
「おれがここへ抜けだしているのに、卜斎めが釣《つ》り天井《てんじよう》の綱《つな》を切ったんだろう。そんな壺《つぼ》におちるような者は、伊賀衆《いがしゆう》の中には一ぴきもいるもんか」
せせら笑っていると、ふいに、家《いえ》のなかから轟然《ごうぜん》たる爆音とともに、火蓋《ひぶた》を切った種子島《たねがしま》のねらい撃《う》ち。
「あッ、気がついたな、こいつはぶっそうだ」
バラバラとかけだしていくと、暗闇《くらやみ》から牛をひきだしたという諺《ことわざ》どおり蛾次郎のうろたえよう。
「お侍《さむらい》さん、——お侍さんじゃないのかい」
「おれだおれだ、馬は? 馬はどこにいる?」
「ここだよ、馬を盗みだしてきたところだ」
「どこだ、アア、まっ暗。どこにいるのじゃ」
「ここだよ、ここだよ」
と蛾次郎《がじろう》が手をたたくと、その音《おと》をたよりにねらった鉄砲《てつぽう》の弾《たま》が、またも、つづけざまに、二、三発、ズドンズドン! と火の縞《しま》を走らせた。
「わあッ、だめだ、あぶねえ!」
ふいに、蛾次郎が胆《きも》をつぶして腰を抜かしたらしい弱音《よわね》。
「えい、泣くなッ」
と叱《しか》りつけた菊池半助《きくちはんすけ》。いったい、この厄介者《やつかいもの》をなんに利用しようとするのか、むんずと横脇《よこわき》にひっかかえて馬の鞍壺《くらつぼ》にとびあがり、つるべうちの鉄砲を聞きながして、人無村《ひとなしむら》から闇《やみ》の裾野《すその》へ、まッしぐらに、逃げおちてしまった。
いっぽう、蚕婆《かいこばばあ》の家の床下《ゆかした》から、人穴城《ひとあなじよう》の間道《かんどう》をすすんでいった加賀見忍剣《かがみにんけん》と巽小文治《たつみこぶんじ》。
瞳《ひとみ》はいつか闇になれたが、道は暗々《あんあん》として行く手もしれない。冥府《めいふ》へかよう奈落《ならく》の道をいくような気味わるさ。ポトリ、ポトリと襟《えり》もとに落ちてくる雫《しずく》のつめたいこと。たえず、冷々《ひえびえ》と面《おもて》をかすめてくる陰森《いんしん》たる風、ものいえば、ガアンと間道中《かんどうじゆう》の悪魔がこぞって答えるようにひびく。
——と、つねに沈着な巽小文治が、ふいに、「あッ」とさけんで一歩とびのき、片手で顔をおさえてしまった。
「どうした、小文治どの」
「なにか風のようなものに、さっと面《めん》をふかれたその痛さ。忍剣《にんけん》どのもかならずごゆだんなさるまいぞ」
「そんなバカなことがあろうか、あれは年へた蝙蝠《こうもり》のたぐいじゃ」
と入れかわって、忍剣が、さきに立って二、三歩すすむと、かれも同じように奇怪ないたさに面《おもて》を刺《さ》されて、たちまち片目を押さえてしまった。そして、ふと衣《ころも》の上に、霜《しも》のように立つものを手でさぐってみて、
「こりゃ! 針《はり》だッ」
と叫《さけ》んだ。
「えッ、針?」
その時、はじめてふたりとも身がまえ直して、じッとやみをすかして見ると、白髪《しらが》をさかだてたひとりの老婆《ろうば》が蜘蛛《くも》のように岩肌《いわはだ》に身を貼《は》りつけて、プップップッとたえまなく、ふたりの面《おもて》へ吹きつけてくる針の息……
おお、それこそ竹童《ちくどう》がなやまされた蚕婆《かいこばばあ》の秘術吹針《ひじゆつふきばり》の目つぶしだった。