馬のいない厩
一
先代の新十郎——つまり土肥庄次郎には祖父にあたる——槍の新十郎といわれた人は、大坪流《おおつぼりゆう》の槍法《そうほう》の達人で、大酒家の上に豪放不羈《ごうほうふき》な性格だった。そのために、一ツ橋家の指南番までゆきながら、たびたび御前《ごぜん》ていをしくじっては、禁酒と謹慎とを、生涯《しようがい》に何度となく繰り返して終わっている。
「祖父を見習うてはいかぬぞ」
それを、子弟の訓戒にしているのが、今の当主半蔵で、
「あんな大酒を召しあがらなければ、ずいぶん、ご出世もし、家禄《かろく》も百石にはなっていたろうに」
と、五人の子女の教育費に貧乏している最中は、よく愚痴をこぼしたものである。
三人の女子は、それぞれ嫁《とつ》いで、今、家に残っているのは、長男の庄次郎と、次男八十三郎《やそさぶろう》の二人きりだった。半蔵の妻は早世して、彼の齢《よわい》も、早や五十幾歳かのはずである。二十五年来、近習番頭取を勤めて、一度の失策もなく、七十石に足らない糊扶持《のりぶち》のうちから、わずかずつを割《さ》いて、付近の茗荷畑《みようがばたけ》を買って家作を建てたり、藩士の内職の才取《さいとり》をしたり、小金を貸したりして、営々と理財につとめ、とにかく、
「土肥は、小金を持っている」
と、家中でも云われるくらいに、律儀《りちぎ》一方で、家運をもりかえした人物なのだ。
屋敷は、小石川武島町《たけしまちよう》だった。
ちょうど、小《こ》日向《びなた》台《だい》の裾《すそ》で、坂と藪《やぶ》ばかりが多いあの辺には、どう眺めても貧乏そうな御筒持組《おつつもちぐみ》の長屋だの、上水組《じようすいぐみ》の屋敷だの、寺だのが、傾斜の所々に、大風に吹き残されたように、ほっ建っている。
土肥家の宅地は、二百坪ぐらいあって、その中ではまあ上の部だった。俗に、琵琶橋《びわばし》という江戸川上水の石橋をわたって、だらだら坂の中腹に見える大谷石《おおやいし》の苔崩《こけくず》れした石段を七、八段のぼると、その上だ。
田舎《いなか》家《や》みたいに、前庭の広い南向きに、母屋《おもや》、書院、小者部屋《こものべや》、納戸《なんど》、玄関と、こう九間ばかりの古い棟《むね》が、曲尺形《かねじやくなり》に建っていて、西の隅《すみ》に、車井戸と馬のいない厩《うまや》とがある。
「飼馬料《かいばりよう》、一年分で、中間《ちゆうげん》の仕着せができよう。馬で、藩邸通いなどは、贅沢《ぜいたく》な沙汰《さた》」
と、先代新十郎の愛馬二頭も、半蔵の代からは、売って、利殖に廻されてしまった。
その、空厩《からうまや》のそばに、柿《かき》の樹《き》が、あお白い花を地にこぼしていた。秋になると善寺丸《ぜんじまる》の甘い実が枝をたわめ、庄次郎、八十三郎の兄弟が、歯の生《は》えだした幼少のころから、今もなお、秋になれば、舌つづみを打たせてくれる柿である。
朝。——毎朝のことだが。
半蔵は、その柿の樹の下を距離の目標にして、裏の的土手《まとどて》へ向かって弓をかまえ、およそ二十五束《そく》(一束四本)の矢を放つのが、多年の健康法になっている。
ひゅっ——
矢うなりが、窓の外を通る。
(中《あ》たらない!)
(また、外《はず》れ!)
そこは、八十三郎の部屋なので、机で素読《そどく》をしながら、矢が、的《まと》へゆかないうちに、窓からよく云いあてて、父を揶揄《からか》った。
「うるさいぞよッ」
半蔵は、子に技倆《ぎりよう》を測られると、やはり面目上、黙っていられないとみえて、
「的を射たがるうちは、まだまだ初心じゃ。弓は、体《たい》と精神の一致、無想の鍛練をもって意《こころ》とする。禅も同じじゃ」
などと、武芸を説いたりする。