馬のいない厩
二
今朝は、
(ヘロ矢!)
(地すべり——)
などと皮肉な声をかけるその予言者が窓を閉めていた。
いないと、さびしい。
五十射ばかりで、止めてしまった。そして矢拾いの中間《ちゆうげん》に、
「重助」
「はい」
「八十三郎、今朝は、どんな容体じゃ。熱は下がらんか」
「ゆうべの蕎麦《そ ば》屋《や》薬《ぐすり》で、汗が出てから、今朝はだいぶ、およろしいご容子《ようす》で」
「そうか。——まだ起きてはいかんな。軽はずみせぬよう、わしが留守の間も、たのむ」
「お若いし、お兄上様よりは、強《きつ》いご気質なので、重助も、お傅《もり》に、手を焼きまする」
「わしが、申し置いたといえ。——ところで、庄次郎は、どうした。今朝はまだ、顔を見せんではないか」
「頭が痛いとおっしゃって、今日は、蚊帳《か や》を取るなと——」
「あれも、風邪《か ぜ》か」
「では、ないようで」
「八十三郎と違い、あの方は、ぐんと、頑丈な質《たち》だ。それに、昨日の容子も、まだわしに聞かせん。起こして来い」
弓掛《ゆがけ》を外《はず》して、縁側で、手刻みの荒い葉を煙管《きせる》につめていると、
「やあ、お早いのう」
親戚《しんせき》の小林鉄之丞《てつのじよう》が訪ねて来た。だらだら坂で、汗をかいたとみえ、少し息を喘《き》って、
「ご日課か」
「ははは。下手《へ た》弓《ゆみ》をな」
「鳶《とび》の子に、鷹《たか》は生まれんというが、生まれることもあるの」
「どうして」
「下手弓の子が、きのう、藩の入江道場では、模範と称《たた》えられ、年齢《と し》としては早くもないが、免許皆伝をうけ、めでとう、卒業したというではないか」
「ほ。そうか」
半蔵の顔は、欣びで、皺《しわ》だらけになった。
「そうか——と云って、其許《そこもと》は知らんのか」
「まだ、聞かせてもくれぬ」
「そこが、床《ゆか》しい。鈍《どん》じゃ、鈍じゃ、と其許はよく、庄次郎を叱りおったが、やはり、見どころがあった。ああいう質《たち》が、晩成するものじゃて」
そこへ、重助が、
「旦那様、庄次郎様は、やはり、頭が痛い、うるさいと、おっしゃって出ておいでになりませぬが」
「寝ておるか」
「夜具はたたみ、蚊帳《か や》だけ吊って、中に坐っていらっしゃるようで」
「変な奴《やつ》じゃな」
だが、そういう性格も、小林鉄之丞に云われてから、急に、わが子の長所みたいに思われ、半蔵は、むしろ、欣しそうな苦笑だった。
叔父《お じ》の鉄之丞は、
「ははあ、読めたよ。それには曰《いわ》くがある。昨日、道場の帰り道、同門の友達に名誉の祝いをせいと責められて、ちとばかり、飲んで歩いたらしい。——庄次郎とて、もはや年。其許《そこもと》のように、律儀《りちぎ》一方、堅い一方で、人間をたたき込むのも、考えものじゃて」
鉄之丞と半蔵とは、これでよく、意見の衝突をやる。鉄之丞は御《お》徒士《か ち》組《ぐみ》同心の御家人で、半町人ほどくだけていたから、親類でも、土肥の家へ遊びに行くはいいが、酒一つ出さんから何かやむを得ぬことでも起こらなければ出向かないと、常々、冗談にも、公言していたくらいである。
「若い者の慾を、無理に、抑《おさ》えつけようとすれば、隠れてやりたくなるのが自然じゃ。頭が痛いと申すのは、飲みすぎじゃろう。——よしよし、わしが、連れて来てやる」