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松のや露八10
日期:2018-11-30 22:29  点击:312
 蚊帳坐禅
 
 
「ははは」
 笑《わら》い転《こ》けたが——すぐ真面目《ま じ め》に心配しだして、
「よく考えろ。忘れたのではないか、どこぞへ」
「さあ?」
 庄次郎は、襖の外へ、顔をかくして、尻だけを見せていた。
「忘れたのであろうが」
「……はあ」
「はあ、じゃない、大事な品、いかがいたした」
「やっぱり、忘れたのだ」
「どこへ」
「じつは……昨日《きのう》……」
 云い渋ると、鉄之丞が、救ってやるように、
「祝いに、飲み歩いたというではないか。その際、友達の手へ、預けでもしたか」
「あ、そうだ。左様でございました。道場から帰り際《ぎわ》に、渋沢栄一殿が、落とすといかぬと注意してくれましたので——」
「では、今日にも、頂戴して参れ」
「はい」
 間もなく、半蔵は出仕の時刻であり、鉄之丞も、親類へ廻るといって、二人とも出ていった。
 重助が、その後で、
「若旦那、味噌汁《みそしる》が冷《さ》めましたが」
「飯はいらん」
 土肥庄次郎は、また、自分の部屋に吊《つ》りッ放しの蚊帳《か や》の中へ入ってしまった。
 腕を拱《く》む。
 いかにも、腐ったという恰好《かつこう》である。
「あんなッて、はずはない。あんなってはずは……」
 ゆうべの失敗を思うと、涙が出そうだった。半生の信念に、大きな動揺をうけての溜息《ためいき》だった。叔父の前では、我慢していたが、じつはまだ、ゆうべ、したたかに投げつけられたときの腰の挫骨《ざこつ》が、ずきずきと火《ほ》てッて、ひどく痛い。
 不思議でならないのだ。どうして、あんなぶざまに投げられたろう。十三年間の道場通いを考えると、口惜《く や》しいよりは、情けない。しかも昨日は、師から免許皆伝の目録を授けられたばかりの帰りだ。
「何をして来たのか、十年の余も——」
 考えざるを得なかった。それだけの歳月を、寒稽古《かんげいこ》の、土用試合のと、竹刀でぽかぽか撲《なぐ》られた上、一ツ橋から小石川の果てまで、往復の足数だけでも、何千里歩いたことになるか、容易な根気で貰った免許皆伝ではない。
「ふしぎだ。……いくら相手が、榊原《さかきばら》でも」
 彼は、不合理と取っ組んで、じっと、半日坐りこんでいた。すると、
「兄上、どうなさいました」
 弟の八十三郎が、起きだして来て、彼の蚊帳《か や》坐禅《ざぜん》をのぞきこんだ。

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