竹婦人
一
——ごしなん、荻江さと。
そこらの空気だけでも、書生侍の木綿《もめん》のたもとには、白粉けが移る気がして、
「あ。ここだな」
小粋《こいき》な細格子《ほそごうし》の中をのぞいたが、庄次郎は、気《き》が怯《ひる》んでしまって、少年の動悸《ときめき》に似たものが、顔へ、のぼってきた。
もいちど、その前で、汗を拭いていた。
稽古日とみえて、奥からは撥《ばち》のたかい三味線がもれてくる。禁断《きんだん》の閾《しきい》をまたぐような好奇心が、彼の勇気を衝《つ》いた。
「ご免——」
格子を開けると、
「はい」
艶《なまめ》いた返辞が、茶の間あたりでする。
簀戸《すど》の腰板に、観世水《かんぜみず》が透《す》かし彫《ぼ》りになっていた。藍《あい》と白の浴衣《ゆかた》に、紅《あか》い帯揚げが、ちらりと、そこに動いた。
「いらっしゃいませ」
十七、八の下町風で、髪に疋田《ひつた》鹿《か》の子《こ》を、愛くるしく、かけていた。
「は」
庄次郎は、口が渇《かわ》いて、まず、お辞儀をするほかなかった。
娘は、おかしそうに、
「お稽古でございますか」
「いや」
慌てて、
「——荻江さと殿とは、ご当家ですな」
「お稽古日なので、お師匠さんは、二階にいらっしゃいますが、ま……お上がりくださいませ、どうぞ」
如才がないし、娘は、美しかった。奥には、板新道の雛妓《おしやく》らしいのが、五人ほど、水盤をのぞき合って、明礬《みようばん》の辻占《つじうら》だの、水草の弄具《おもちや》などを咲かせて、騒いでいる。
「ご遠慮はいりませんから——こちらへ」
「実は、ちと」
庄次郎は、なお固くなった。
「さと殿に、会いたいが」
「お稽古中は、降りて参りませんから、少し、お涼みくださいませ」
水《みず》団扇《うちわ》だの、煙草《たばこ》盆《ぼん》だの、座敷において、娘は、麦湯を汲んでいた。
(どうしよう?)
庄次郎は、迷ったが、二度と来る勇気はない。で、上がりこんで、袴《はかま》のヒダを気にしながら、畏《かしこ》まっていた。
「お楽に——」
「はっ」
「おくずし下さいませ」
「は」
そうして、半刻《はんとき》も、厳《おごそ》かに待っていた。生《き》真面目《ま じ め》な彼の顔へ、時々、蠅《はえ》が来て、鼻をしかめさせた。