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松のや露八19
日期:2018-11-30 22:32  点击:250
 夏去り秋来る
 
 
 何か、考えごとをしながら、長い夜道を、ぼんやりと歩いて行く。
 竹刀の先ッぽに、目録の包みを結びつけ、肩にかついでいる恰好《かつこう》は、狐に憑《ばか》された武者修行とでも見えるのか、野良犬が、後ろから、わんわん吠えた。
「土肥さあん——。土肥さんてば——」
 お茶の水まで来ると、お蔦が、息をきって追いついて来た。
 庄次郎は、水道橋の欄干《らんかん》に、倚《よ》っかかって、無表情な眼で、彼女を迎えた。
「どうなすったの」
「どうもしない」
「お宅は、どちらです」
「小石川……武島町」
「じゃあ、まるで、方角ちがい、近いなら送って行こうと思ったけれど」
「なんの」
 首を振って、深い——真っ暗な——お茶の水の谷をのぞきこんだ。
 お蔦は、体を摺《す》りよせて、庄次郎の顔のそばで、ささやいた。
「また、来てくださいね。板新道の家へ——」
 息が、耳に、熱かった。
「ウム」
「きっと」
「うむ……」
「妹に、気がねなんか、いりやしない。お里だって……ほんとのこというと、榊原《さかきばら》健吉の、お妾《めかけ》みたいなものになってるんですからね」
「あ……そうか」
「一番下のお喜代にだって、いま、旦那の話が持ちあがっているし……淋しいのは、私だけ、私だけが、ひとりぽっち」
 欄干にある庄次郎の手へ、お蔦は、胸を押すようにして云った。乳ぶさのやわらかな肌のぬくみが、うすい単衣《ひとえ》はないように、ぴったり、彼の手を抑《おさ》えつけていた。
 だが、庄次郎は、なぜか、お蔦の髪や肌を感じながら、心では、お喜代の愛くるしい眸《ひとみ》や、唇や、白い顎《あご》を描いて、かすかな水音のする深い闇の底から、あの疋田《ひつた》鹿《か》の子《こ》が、うかび出してくるように、うっとりしていた。
「じゃ、また、そのうちにね」
「あ……」
 庄次郎は、びっくりして、頬へ手をやったが、お蔦の熱い唇は、もうかなたへ飛び離れて、笑っていた。
「左様なら——」
 橋板を鳴らして、彼女は、小走りに、行ってしまった。
「ちッ……」
 袂《たもと》で、頬をこすったが、お蔦のにおいが消えなかった。二十七にもなって、まだ、清童《せいどう》である彼の潔癖が、忌々《いまいま》しげに、
「出戻りの女などに——」
 つぶやいて、腹を立てた。
 そのくせ、しきりと、想いだされるのが、お喜代だった。お喜代になら、毎日でも、会いたい気がしてきた。眸を、どっちへ向けてもお喜代の顔か、帯か、疋田鹿の子かが、闇のなかにちらついて見えた。
「ああ! 馬鹿馬鹿しい——」
 突然、彼は、担《かつ》いでいた竹刀と目録とを、欄干から谷間へ、抛《ほう》り捨ててしまった。そして、何丈か下の水面で、どぼん——と白い光がちらかると、初めて、爽々《さばさば》したように、
「お情け免許め、十三年、俺に無駄をさせやがった。——ざまを見ろ、肥船《こえぶね》の尻にでもついて、流れてしまえ」
 

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