笄
一
秋は、酒が美味《う ま》い。
金六町のしがらき茶屋で、酌《く》み交《か》わしていた入江道場の万年門弟たちが、
「おや、あの衝立《ついたて》の蔭で、ひとりで飲《や》っているのは、土肥じゃないか」
「土肥とは」
「お情け免許の庄次郎」
「まさか」
誰も、真《ま》にうける者はなかった。
「あいつは、酒ぎらいの、堅人《かたじん》じゃないか。お情け免許をもらった晩でも、いつのまにか、逃げ帰っていたくらいな男——」
「でも、土肥らしいぞ」
「賭《かけ》をしよう」
「よろしい」
一人が、立って行く。
隅《すみ》の衝立《ついたて》の上から、不作法に覗《のぞ》きこんだと思うと、頓狂《とんきよう》な、声をだして、
「やっぱり、土肥だっ。この、猫かぶり」
腕をつかんで、そこから、ずるずると引き摺《ず》りだして来たのである。見ると、なるほど、土肥庄次郎にちがいないが、彼らの記憶にない庄次郎だった。樽柿《たるがき》のように真っ赤《か》に饐《す》えている。下手《へ た》に動かすと肥《ふと》った体が、酒で、がぼがぼと鳴りそうに酔っている。
「あきれた奴《やつ》……」
顔まけがしたように、揃いも揃って、唖然《あぜん》としていた。
「やあ……こ、これは」
庄次郎は、洋式の敬礼をした。
「た、たれかと、思えば、これは過日の、先輩諸君で……。はははッ、奇遇でござるな。場所も、しがらき。ここは馬鹿どもの集《よ》るしがらみと、みえる」
「何を云ってるかっ。こらッ。土肥っ、横着者の猫かぶりめ」
「猫じゃ、猫じゃと、おっしゃいますか」
「撲《なぐ》るぞ。長年のあいだ酒は一滴もやれないの、やれ、門限があるのと、朋友《ほうゆう》の誼《よし》みを欠いて、俺たちを、馬鹿正直に、買いかぶらせていやがって。——怪《け》しからんやつだ」
「はい」
「ハイじゃないっ。もう、貴様の尻《し》っ尾《ぽ》は、つかんだ。今夜こそ、帰さないぞ」
「のぞむところ」
「なに」
「行こう。ど、どこへでも行くぞ……。猪《ちよ》ッ、猪牙舟《ち よ き》か、駕《かご》か」
「オヤ、こいつ、どうかしているぞ。誰か、馬を雇ってこい。縛《くく》りつけて家《うち》へ帰した方がいい」
見ているまに、庄次郎は、そこらの燗徳利《かんどくり》の酒をひとりで腹へ集めてしまった。またいくらでも入りそうな恰幅《かつぷく》なのである。衆寡敵せずは、兵法の定石で、この場合の酒戦は、逆になった。
怖れをなして、
「おい、勘定を、持ってるか」
庄次郎に、糺《ただ》すと、
「勘定とは、金のことか」
「あたりまえ」
「金は……」と、首をちぢめて、「ない、ない、ないの内大臣。あはははは、今夜あ、貴公たちが、おいどんに、奢《おご》ってもよか!」
このごろ、江戸で流行《は や》る、薩摩《さつま》ッぽうの口《くち》真似《ま ね》をして、仰向けに、ころがった。