毛抜き
二
酢《す》がにおう。
鮨屋の二階だった。
灯《ひ》は消えている。二人は、疲れた後のように黙っていた。掛蒲団のすそから庄次郎の足の裏が顔をだしている。お蔦は、枕がみへ、じっと、眼をふさいでいた。
「…………」
窓いっぱいに銀河《あまのがわ》だ。その星の色を吹きこぼすような風が、秋のあわただしさを跫音にもって、灯のない部屋の二つの寝顔を撫《な》でて通りぬける。裏の物干《ものほ》しで干し物竿《ざお》が、からからと鳴る。
すぐ裏の板新道の宵の気はいが、風のせいか、遠くに聞こえる。細見《さいけん》売りの声、ぜんざい屋、ぼろんじの尺八——
庄次郎は、ふいに、
「あっ。……俺は帰る!」
起き上がろうとしたが、どこかを女の手が抑えていた。その手は離れない。
「早いのよ、まだ」
「でも、でも俺は」
「怒《おこ》ったの」
「…………」
無理に起きて、帯を締める、印籠《いんろう》をさがす、足袋《た び》をはく——
「刀は、刀はどこへ置いた」
「まあ、火事みたいに」
「俺は、帰る」
「そんなに、あわてなくても、帰さないとは、云いませんよ」
お蔦は、笑っていた。
すっかり酒の醒《さ》めた庄次郎は、その白い微笑を、睨みつけた。腹だたしくもあるし、蠱惑《こわく》な眼の中へ吸い込まれそうな危うさも感じられて、どっちみち、早く、この二階から飛び出したい。
「そこまで、送って行きましょうね」
長襦袢《ながじゆばん》のまま部屋を片づけて、お蔦は行燈《あんどん》に向かって、燧打石《ひ う ち》を磨《す》っている。
ふと、庄次郎は、新妻《にいづま》の照子をおもい出した。行儀作法がよくて、文字があって、貞淑で、申しぶんのない良妻が、彼にはどうしても好きになれなかった。
その照子と、父と、やぶ蚊が待っている家庭を思うと、庄次郎は、また、坐りこんでしまった。
行燈がともる。
隅《すみ》で着物を着ていたお蔦が、
「庄次さん……」
もう、女は、呼ぶのからして言葉が違っているのだ。甘え声で、
「ちょっと、手を貸してよ」
「なんだ」
「帯の端を、ぎゅっと、締めてくれない?」
庄次郎は、むっと、面《かお》を膨《ふく》らしていた。
「嫌《いや》なの」
勝手にしろっ——と思いながら彼ははっと手を出して、
「こうかっ」
「あ、痛。そんなに強く締めたら、お腹《なか》がちぎれてしまう」
「先に、帰るぞ。俺は」
「ホホホ、ほんとに、怒ったのですか。ごめんなさい、堪忍《かんにん》してね。……それから、私を、捨てないでね」
男の頬を、両手で持って、口紅のとれた唇を、もいちど、前へだした。