萩の世帯
二
ここなら、世間へ知れっこない。向島《むこうじま》の小梅村。
小倉庵《おぐらあん》長次の近くだった。梅暦《うめごよみ》の挿絵《さしえ》で見るような萩《はぎ》の籬《まがき》で一軒家、家賃も安いし、近所も気楽である。そこへ、越してからすぐ札を出したのが、
荻江節《おぎえぶし》、お蔦《つた》
女師匠が、奥で爪弾《つまび》きをしていると、大きな男が、つるべ井戸から手桶をさげて風呂場へ汲みこんでいた。
「あなた、少し、お稽古をしなくちゃ駄目ですよ」
「さらってもらおうか」
仲がいい。世帯が珍しいのだ。しかし、弟子はまだ一人もつかなかった。
「庄次さん、浅草へ行かないか」
「何しに」
「遊びにさ」
「嫌《いや》だ」
「じゃあ、あたし、一人で行く。お小遣い、まだある?」
「あるよ」
財布ぐるみ渡して、
「これだけだ」
お蔦は中を見て、
「もう一つの財布にあるお金は」
「あれは、渋沢栄一へ返す金。お前、出かけるならついでに、届けてくれ。気がかりで、たまらない」
「そんなもの、返すこと、ありゃしない」
「いや、あの吝《しわ》ン坊《ぼう》が、意気で貸してくれた金だ。人間、意気には感じる。手紙を書こうか」
お蔦は、帯に入れて、出て行った。晩には、帰るものと、庄次郎は、白玉の団子と、西瓜《すいか》を、井戸水に冷やして、夕飯もひかえて待っていた。
だが、お蔦は、朝になっても帰らないし、次の日も、姿を見せない。
「どうしたのだろう? 榊原に見つかって、また、家へ連れて行かれたかな?」
三囲《みめぐり》の土手に立って、ぼんやり腕を拱《く》んでいた。何となく、不安が胸へ潮のようにさしてくる。
(あいつ、浮気者だからなあ……)
沢村田之助の似顔を持っていたり、撥《ばち》ふくさや、櫛笄《くしこうがい》にも、田之助の紋をつけちらしていたことが、急に、思い当たってきた。——金は持って出たし。
「畜生……」
大川を、睨んでいると、涙が出てきた。幾度も、竹屋から渡舟《わたし》が着く——。しかしその中に、お蔦は見出されなかった。
「やあ、土肥の伜《せがれ》じゃねえか」
ひょいと見ると、渡舟を降りる客の中に、眼ッかちと、禿安《はげやす》の顔があった。ほかにも、闘鶏《と り》師《し》の仲間がいるらしい。あいつだ、と指さして、土手を駈け上がってきた。