桐壺の客
二
ぼんやり顔のお帳場さん——は小倉庵の名物になった。筆を耳に挟《はさ》んで毎日ぽかんと空虚《うつろ》な眼をしている。時には、物々しく腕拱《うでぐ》みして考え込んでいる。
うすうす、事情《わ け》を知っている女中が、
「どうしたのさ、庄さん」
同情を示しても、
「やめてくれ。女は、嫌いだ」
膠《にべ》のないこと、ひどいものだ。
だが、庄次郎は、
(畜生め)
内心、瞋恚《しんい》に燃えていたことは当然だろう。そして毎日、
(今に、見つけてやるぞ)
亭主の長次が云った言葉に暗示をうけて、帳場から、廻り燈籠《どうろう》のように通る妓《おんな》を眺めていた。客に伴《つ》れられて、屋形船《や か た》からここへ来る妓には、およそ、江戸中の粋《すい》が抜かれているはずである。だが庄次郎の眼をひく妓はいなかった。——あれほど初手《しよて》は忌《いま》わしい女だったお蔦に優《まさ》る女が、今の眼には見当たらない。
自分の心の変化が不思議でならない。しかし、この執着は、お蔦の美や気質《きだて》にあるのではなく、お蔦の持つ肌と唇にあるのだと気づくと、彼は、人知れず、焦々《いらいら》して、
(殺してしまおうか)
田之助の田の字を見ても、そう思った。
涼みの客が、虫聴《むしき》きの客に変わる。すみだ川に、初秋が来ても、お蔦は、あれっきり、切れた三の糸みたいに、便りがない。
すると、ある日、
「あらっ、まあ……」
帳場の前に立って、さも驚いたように云う妓がある。玉帳《ぎよくちよう》をつけていた庄次郎が、何気なく顔を上げてみると、それは、お蔦と寝る夜も、瞼《まぶた》に消えたことのない——板新道《いたじんみち》の三人姉妹《むすめ》の末娘、あの、お喜代だった。
「おやッ? ……」
筆を持ったまま、帳場から歩き出して、
「お喜代じゃないか」
「どうなすったの……土肥さん」
「おまえ、芸妓《げいしや》になったのか」
「え。川向うの堀《ほり》から出ています。これもみんな、お蔦姉さんのためですわ。姉さんのこしらえた不義理な借金の穴埋めに」
「面目ない。その罪は、俺にもある……」
「あなた、どうしてまた、お侍のくせに、料理屋のお帳場さんになったんですか」
「これも……」
お蔦の奴《やつ》のために——と云いかけたが、云うのを恥じた。まして、この妹には、云えた義理ではなかった。
「詳《くわ》しいことは、いずれ、話そう。そのうちにどこか静かな家《うち》で……。よんだら、来てくれるか」
「え。参りますとも」
すると、裏梯子《うらばしご》の下で、
「よウ、よウ」
「ご両人様」
女中だの、芸妓たちだの、一山ほどかたまって、囃《はや》した。
「ひどいわ!」
お喜代は、遠くから打《ぶ》つ真似して、美しい魚みたいに、走って行った。
どかんと、帳場に坐り直して、庄次郎はまた、帳つけの筆をさがした。
「筆がない、筆がない」
きょろきょろと、膝の下を剥《めく》ってみたり、立ってみたり、やっと、その筆が、耳に挟んであるのを見つけて、
「さあ、見つけたぞ……」
顔が、希望でいっぱいになった。婚礼の夜みたいに、胸がときめいて来る。どこで会おう、どこから呼びをかけよう。そして……そして……
「ははは。見つかった、とうとう、見つかった」
ひとりで、笑っていた。