日语学习网
松のや露八46
日期:2018-11-30 22:46  点击:318
 痘痕志士
 
 
「庄どん。——お帳場さアん」
 女中が、中庭から呼んでいた。
 庄次郎は、あわてて、
「では、いずれまた」
「自分《てまえ》も帰る」
 同時に、渋沢も立った。
「諄《くど》いようだが、あの書付が、幕吏の手にわたると、迷惑いたす者が幾人も出る。どうか、相違なく、お届けねがいたい」
「承知しました」
 渋沢を、庭口へ送り出すと、庄次郎は、あたふたと、帳場へ戻って、算盤《そろばん》を持っていた。
 すると、主人《あるじ》の小倉庵の長次が、どこで見ていたのか、こんなことを話しかけた。
「土肥さん」
「はい」
「桐壺から今帰った客は、渋沢栄一という田舎侍じゃねえか」
「そうです」
「おめえも、同類じゃねえか」
「えっ。どうして」
「渋沢という男は、勤王浪人の尾高東寧《おだかとうねい》や、その他の百姓侍と計って、高崎の城に、夜討をかけ、軍資金を集めて、討幕の旗挙げをしようとしたことがバレて江戸へ逃亡した野郎だ。武州の榛沢村《はんざわむら》から、俺の手へも、廻状《かいじよう》が来ている」
 小倉庵は、阿部閣老に取り入っているし、また、兄弟同様にしている鈴木藤吉郎は与力を勤めているし、そんな関係から、料理屋の亭主ではあっても、小梅村での十手預かりだった。
 庄次郎を、自分の部屋へよんで、うす痘痕《あばた》のある志士の人相書を出してみせた。紛《まぎ》れのない渋沢栄一だった。
 罪文は、高崎藩から廻ってきたものである。
 庄次郎は唾《つば》をのんで見つめていた。
「読めたろう、それで」
「なるほど」
 庄次郎は、呻《うめ》いた。
「すぐ、ふん縛ろうかと思ったが、おめえも懇意らしいし、商売冥利《みようり》、今日のところだけは見遁《みのが》してやったが、小倉庵が、承知で、彼奴《きやつ》に大手を振って歩かせていると云われちゃあ、世間に済まねえ、近いうちに野郎を召捕《あ げ》るぜ」
「そうですか」
「同類でないならば、おめえも、一肌《ひとはだ》ぬいで、手伝ってくれるはずだ。一ツ橋家の藩邸へ、十手を持って踏み込むわけにはゆかねえ。奴を、外へ誘い出してくれれば大《おお》手功《てがら》だが、土肥さん、やってくれるか」
「やりましょう」
 そう云うよりほかはない。庄次郎は手引を承知した。
 それには、折よく、彼へ届け物の約束がある。
 小倉庵も、それは渋沢を誘《おび》き出すに好都合だと考えた。
 翌々日、二人は、手筈《てはず》を諜《しめ》し合わせて、向島から竹屋へ渡舟《わ た》った。二人の後から五、六名の捕手《とりて》が、平和な顔をして、歩いて行った。
 猿若町の低い屋根越しに、芝居小屋の櫓《やぐら》と幟《のぼり》が見えた。沢村田之助の幟《のぼり》を見ると、庄次郎は、
(畜生め)
 お蔦へともなく、田之助へともなく、肚《はら》のなかで、呪《のろ》うように、呟いた。

分享到:

顶部
11/24 15:04