十
ゆみ子が疑問におもった電話は、一週間に二、三度かかってくる。時刻は、かならず十一時すこし過ぎである。木岡がしばらく応答し、そのまま電話を切る。間もなく、よう子が註文の品を運びに立ち、短かい会話が木岡とのあいだに取交される。
日が経つにしたがって、ゆみ子のその電話にたいしての気懸りがはげしくなった。電話が鳴り、受話器を取上げた木岡がいつものように店の女の名を呼ばずに応答をはじめると、ゆみ子は自分への電話のように緊張する。木岡のほうに眼を向けまいと努めると、かえって視線が動き、あわてて元へ戻す。そのため、木岡へ向けた眼には、探るような怯《おび》えたような色が浮ぶ。
そういうゆみ子の眼が、ある夜、木岡の眼と合ってしまった。合ったと分った瞬間、
「失敗《し ま》った」
とゆみ子はおもった。
なぜ、そんな言葉が浮んだのか分らない。そのために、ゆみ子の眼の色は、一層疑いと怯えを深くした。
木岡の顔が、こわばり、すぐに元に戻った。しかし、その無表情な眼が、しばらくゆみ子の横顔にそそがれていることを、感じた。頬のあたりが、熱く、痛い。
予感があった。店を終って帰ろうとするゆみ子を、木岡は呼びとめて、
「用事があるんだ」
と、近くの喫茶店の名を告げた。
喫茶店の隅の席で向い合うと、木岡はうかがう眼でゆみ子を見た。その眼に迷う光があらわれ、やがて低い声で訊ねた。
「よう子のことを、どうおもう」
「ご立派とおもうわ」
木岡の眼は曖昧なままである。ゆみ子は言葉をつづけた。
「だって、たとえばよう子さんが、遠くのほうから他の席のお客を見詰めたとするわね。そのとき、そのお客に反応が起らないと、よう子さんの顔が、損をした、というふうになるのよ。徹底していて、ご立派だわ」
「なるほど、それで、よう子のようになりたいとおもうかい」
「さあ……」
「それとも、よし子のようにかい」
「よし子さんも、ご立派だわ」
「あいつは駄目だ。男に惚れたりして」
「でも、そのことが商売のプラスになっているもの」
「今のうちはな、なにせ、古狸だから。だが、そのうち駄目になる」
「そうかしら」
「おれの眼に狂いはないさ。いまに……」
と、喫いかけの煙草を、白い灰皿の中で手荒く躙《にじ》り消して、
「こんな具合になってしまう」
ゆみ子は、きれいに掃除された灰皿のまん中で、よれよれになった紙巻煙草を、黙って見詰めていた。紙が破れ、灰皿の底の水がにじみこんだ横腹から、茶色の葉が臓物のようにはみ出している。
「どうだい、つき合わないか」
不意に、彼が言った。
「困ったわ。つき合わないと、お店をやめなくてはいけないのかしら」
木岡は苦笑して、
「そういうこともないが。ま、なにも今夜と限ったことはない」
新しい煙草をくわえ、火をつけると、煙をゆみ子の顔に吹きつけた。煙のあいだから、木岡の声が聞えてきた。
「それじゃ、油谷をとりもってあげようか」
「とりもつですって。油谷さんが、頼んだの」
「そういうわけではない」
念を押す口調で、否定し、
「油谷がきみに気があるようだし、きみも厭ではなさそうだ」
「そう見えて」
「見えるね。このままだと、安く遊ばれてしまい兼ねない。そんなことになったら、恥ずかしいだろう」
「恥ずかしいって」
その言葉を呟いて、反芻してみた。
「だから、おれが一役《ひとやく》買ってやろうというわけさ」
よう子と木岡との関係、あの気懸りな電話の意味が、しだいに分ってきたように、ゆみ子はおもった。
「まだその気にならないわ」
ゆみ子は、わざとそういう言い方をした。
「いずれにしても、勤まりそうだな」
「でも、おもったよりお給料が安いわ」
「当り前じゃないか」
木岡は、言い聞かせるように、
「きみは、店を客の傍に坐って酒の相手をする場所だとおもっているのかい。店はきみに舞台を提供しているわけさ。演技する舞台を、しかも金を払ってね。舞台の底には、金も銀も埋まっている。演技のやり方ひとつで、いくらでも掘り出すことができるわけさ」
金の鞍には王子さま、
銀の鞍にはお姫さま……。
そんな童謡があったかしら、とゆみ子は考えながら、訊ねてみた。
「それで、木岡さんは舞台監督なの」
「さあてね」
木岡の顔に、自嘲の色がかすめ、すぐにいつもの無表情に戻った。