十一
酒場「銀の鞍」の店の中では、女たちは煙草を喫ってはいけないことになっている。したがって、灰皿は客のためだけに、用意されているわけだ。
男たちの煙草の吸い方は、人さまざまで、灰皿の吸殻を見ただけでもそのことが分る。二センチほど吸っただけで消された長い吸殻が、またたく間に幾本も並んでしまう灰皿がある。もしも灰皿を掃除されたものに取替えなかったならば、その長い吸殻はつぎつぎと増えてゆく筈のものだ。あるいは、指が焦げるほど短かくなった吸殻もある。灰皿の縁に置かれたまま、煙草のかたちの灰になってしまったものもある。その客は、灰皿に置いた煙草のことを忘れて、新しい煙草をくわえているのである。
吸口がほぐれるほど唾で濡れた吸殻もあり、きれいに乾いているものもある。
そして、力いっぱい灰皿の中で躙り消された煙草が眼に映ると、ゆみ子の頭の中に仁木の顔が浮び上り、おもわず視線をよし子に移す。仁木とは、よし子が惚れている青年の名である。
吸殻のかたちとよし子が二重写しになり、耳の奥でバーテンの木岡の言葉がひびく。
「いまに、こんな具合になってしまう」
その言葉は、神秘的な力のある予言として、ゆみ子の中に生きている。たしかに、よし子がその予言のようになってゆく兆候が、あらわれはじめているのだ。よし子は、打明け話の相手に、ゆみ子を選んでいた。のろけ話といえるよし子の打明け話に、しだいに苛立ちと疑いが陰を落すようになった。その陰はしだいに色を濃くし、大きく拡がってゆく。
「ゆみ子、ちょっと聞いてよ」
化粧室の中とか、客を送り出して戻る階段の途中とか、わずかの暇を見付けて、よし子は仁木の話をゆみ子の耳にそそぎこむ。仁木の名は、いつもゆみ子に纏わり付いた。そのため、仁木が店にあらわれる回数が目立って減っていたことを、ゆみ子はしばらく気付かないくらいだった。
「ねえ、ゆみ子、仁木にはたくさん女がいるらしいのよ」
「…………」
「五人も十人も」
「でも確かなの」
「そうでなくちゃ、いつも元気がないなんて、考えられないもの。まるでインポなのよ」
そのような会話の断片が、よし子とゆみ子との間に積み重ねられてゆき、閉店までにはかなりの嵩になった。
客の傍のよし子は、さすがに以前と変らなかった。人工的な若さの奇妙な魅力をもったよし子であり、あるいは憂愁に飾られたよし子である。しかし、稀に放心した短かい時間に落込んでいるよし子を、ゆみ子は見ることがある。そのときのよし子の顔は、年齢と疲れを露わにしていて、おもわず眼を背けたくなるものだった。
「崩れかかっている」
と、ゆみ子はおもい、よし子が砂で固めた人形のようにおもえる。砂が乾きはじめ、たくさんの砂粒のあいだの繋りが切れ、顔からはじまった崩れがたちまちのうちに全身に及ぶ。床の上に崩れ落ちたよし子の躯が消え失せて、襟のところをつまんでふわりと床に落した衣裳だけになってしまう錯覚が起る。
しかし、よし子は危うく踏みとどまって立直る。まだ、誰も気付いていない。知っているのは、ゆみ子だけだ。