十二
しばらくぶりに姿を現わした仁木は、よし子が化粧室へ立ったとき、隙を狙っていたようにゆみ子に名刺を手渡した。
「一度、会社へ電話でもしてみてください」
ゆみ子の耳もとで、ささやく声があった。よし子のことで相談でもあるのか、と咄嗟にそうおもったが、よし子が打明け話をしていることを、仁木は知らない筈なのだ。とすると、仁木は誘っているわけか。
儀礼的に名刺の活字に眼を向けてから、ゆみ子は洋服の胸の下へその名刺を滑りこませた。優雅とは反対の仕種で、好ましくないのだが、いかにも自分が水商売の女になった気持になる。ゆみ子は、自分にたいしての悪意をこめて、その仕種を愛した。
洋服の襟から名刺を入れようとするとき、顎が上って咽喉の皮膚が露わになる。その部分に、仁木の眼が粘り付いてくる。その眼を感じると、ゆみ子は自分のその部分がなめらかな若々しい二十一歳の皮膚でおおわれていることを、今はじめてのように意識した。
よし子が席に戻ってきた。ゆみ子は胸の皮膚に触れている仁木の名刺が気にかかった。誘われたということは、自尊心をくすぐったが、嬉しくはなかった。仁木に魅力を感じなかった。よし子の打明け話に出てくる男から誘われたことが、ゆみ子の負担になった。
迷ったが、仁木が帰ったあとで、ゆみ子はその名刺をよし子に手渡した。
「こんなものを貰ったの。だから、よし子さんに渡しておくわ」
と言ったとき、よし子の顔色が変った。
「もう一枚の方も、頂戴」
よし子の言葉の意味が分らず、怪訝な顔になった。
「とぼけないでよ。同じ名刺をもう一枚、隠しているのでしょう」
「まさか」
「嘘つき」
小さく叫ぶと、よし子の手がゆみ子の胸に伸びた。胸の開いていない洋服なので、その手は襟もとから潜りこむことができない。ゆみ子の乳房と乳房のあいだを、その手は布地の上から手荒く探った。
「なにも、ありはしないわ」
背をかがめ両腕で乳房をかかえこむ姿勢になって、ゆみ子は首を左右に振る。隠す素振りと間違えて、よし子の指が一層はげしく動いた。しかし、その指はゆみ子の胸の左右のふくらみに当るだけだ。
不意に、よし子の指がそのふくらみを掴みあげた。内側に曲った五本の指が、噛み付いているようにみえた。若い弾力を憎んでいる、衰えのみえはじめた指をゆみ子は見下ろすと、おもわず大きく胸を張った。
席に戻ってしばらくして、電話が鳴った。バーテンの木岡が、ゆみ子の名を呼んだ。ゆみ子に電話がかかってくることは、稀である。心当りがなかった。
その電話は、一時間ほど前に帰った客からだった。酔った声で、鮨屋の名を告げ、店が終ってからその店にきてくれ、という。婉曲に断ったが、執拗だった。短かいあいまいな返事を繰返していると、ようやく相手はあきらめた。
受話器を置いて小さく溜息をついたとき、傍に人の気配を感じた。顔を向けると、そこに黄色く燃えているよし子の眼があった。よし子は逆上していた。しかし、さすがに声をおさえて、ゆみ子の耳もとで言う。
「仁木が、あんたを誘ったんだろう」
「え」
「いまの電話よ」
店の中の女たちが、おもわず視線を向けるほど、甲高い調子だった。