十三
ゆみ子への嫉妬がキッカケとなって、よし子の崩壊がはじまった。いや、その嫉妬が筋の通らぬものであるところをみれば、それは崩壊の過程の一つのかたちといえようか。一ヵ月ほどのあいだに、よし子は躙り潰《つぶ》された吸殻のようになってしまった。
その一ヵ月間がはじまったある夜、ゆみ子は腹痛のため、店を休んだ。翌日、ゆみ子が店の更衣室へ入って行くと、飛びかかる勢でよし子が近寄ってきた。
「昨日は、何をしたのさ」
「一日、部屋で寝ていたわ」
「嘘。仁木とどこへ行ったの。ちゃんと分っているのだから」
「仁木さんと……」
「仁木も昨日会社を休んでいたことは、分っているのよ。あんた、仁木と箱根へ行ったのでしょう」
「冗談じゃないわ。でも、どうして箱根なのかしら」
「仁木があたしを最初に誘ったときは、箱根に行ったんだもの」
ゆみ子はなるべく受流すようにつとめていたが、度かさなるとおもわず気色ばむこともあった。数日後、次のようなやりとりが二人のあいだにあった。
「仁木さんとなら、たとえ一年間一緒の部屋にいたとしても、よし子さんの心配しているようなことには、なりはしないわ」
「あんたは、仁木に満足させてもらっているから、そんな落着いたせりふを言うことができるのよ。仁木をあんなに疲れさせている女は、殺してやりたいわ」
よし子の眼が、ゆみ子の前で黄色く燃え上った。
「わたしじゃないわ。私立探偵でも使って、殺す相手を見付けたらいいとおもうわ」
「あんた、まだそんな……」
いきり立ったよし子は、不意に静かになって、
「そう、探偵ね。いい考えだけど……」
と考え込む顔になった。しばらく間を置いて、
「でも、お金が無いわ。あの預金通帳には、手をつけるわけにはいかないもの」
ゆみ子への嫉妬のはじまる前の打明け話で、預金通帳のことを知っていた。よし子の持っている預金通帳は、仁木の名義にしてある。その中に、よし子はつつましい数字を積み重ねていた。そのほかにも、よし子は仁木のために金を使うことが多い。よし子と会うと不能にちかくなる仁木のために、高価な薬品を幾種類も用意した。よし子の部屋には、仁木のための下着類や和服などが取揃えてある。部屋いっぱいになっているようにみえるダブル・ベッドも、仁木と知り合ってから買ったものだ。
「仁木さんのために積み立てたお金でしょう。そのお金を使って、仁木さんを尾行させれば丁度いいじゃないの」
「そんな……」
よし子はゆみ子を睨み据えたが、にわかに勢を取戻して言った。
「そうだ、あたしが探偵になればいい。そうすれば、お金は要らないわ」
「…………」
「ゆみ子、注意しなさいよ」
脅す口調で言ったのだが、よし子は尾行についての打明け話の相手として、やはりゆみ子を選ぶのである。
次の夜の午後七時、ゆみ子に電話がかかってきた。
「ゆみ子、あんた、そこにいるのね」
聞き覚えのない声が、途中からよし子の声になった。よし子は、声を変えていたのだ。
「当り前じゃないの」
「あんた、おいしいスパゲッティの作り方を知っている」
「え」
「いま、仁木がスパゲッティを食べているの。仁木の会社の近くの洋食屋なの。店の人に聞いてみたら、食事にきたときはかならずスパゲッティにビール一本なんですって」
「探偵しているのね」
「そうなの」
よし子の声は、緊張と興奮のためか、上機嫌に聞える。
「料理がくるまでに、電話を三つかけたわ」
「どこへ電話したの」
「そこまでは分らないわ。これから後のことは、また電話して教えてあげるわね」
翌日の午後七時、また、よし子からゆみ子に電話があった。
「あんた、そこにいるのね」
同じ言葉で、その電話ははじまった。
「昨日と同じところで、いま仁木はスパゲッティを食べているわ。それより、昨日のことを教えるわ。あれから、タクシーで銀座に出たわ。バーを三軒まわったけど、うちのお店には来なかったわね。十二時ごろ、タクシーで、中野の方へ帰った。門のある小ぎれいな洋館で、門の柱に仁木の表札がかかっていたから、あそこが仁木の家なのね。あ、仁木が立上ったわ。では、またね」
六日間、よし子の尾行は続いた。郷里に用事ができたといって、店には六日の休暇を申し出ていた。その期間に、一度だけ、仁木が「銀の鞍」に入ってきたことがある。店の近くの薄暗がりに、苛立ちながら身を潜めているよし子の姿を、ゆみ子は思い浮べた。滑稽にもおもえたが、陰惨な感じのほうが強かった。
仁木の夜の行動は、意外に単調だった、とよし子はゆみ子に告げた。会社からそのまま帰宅する日もあり、酒場に寄った夜もかならず家へ戻っていた。外泊は一度もなかった。映画館に入った夜が一度あったが、そのときも仁木はひとりだった。
「すっかり疲れてしまったわ」
と、よし子は肩を落して言った。
「でも、安心したでしょう」
「一応はね。だけど、それならなぜ、あたしと会ったとき、仁木があんなに疲れているのか分らないわ」
疲れているのでなくて、よし子さんに倦きたのよ、という言葉を、ゆみ子は口の中だけで言ってみた。そのため、会話がそこで躓《つまず》いた。よし子の顔色が、不意に変った。躓いた瞬間に、突然思い当ったのだ。
「あたしが探偵しているのを知っているのは、あんただけだったわね」
「…………」
「いま、はじめて気が付いたわ。馬鹿だったわ。あんた、笑っているのでしょう」
よし子の唇がめくれ上り、左右に大きく裂けると、
「殺してやるっ」
そのあられもない言葉が、いまのよし子の顔に似合った。よし子の顔いちめんが、撲《なぐ》られたあとの黒ずんだ紫の皮膚に似た色になっていて、その皮膚の裂目のような二つの眼が血走っている。肉の薄い背中が前かがみになって、老婆をおもわせた。
そういう姿は、ゆみ子にとって見覚えのないものではない。洋一と別れた前後、ゆみ子は鏡の中にそれに似た自分を見出していた。その時期が過ぎて、ゆみ子は酒場に勤めるようになったのだが、すでに酒場の女であるよし子は、これからどこへ行こうというのだろう。
「でも、わたしではないのよ」
冷静に、ゆみ子は言い、
「仁木さんには、本当に、よし子さんのほかに誰かいるのかしら」
ゆみ子は、本気でそのことを考えていた。その口調に、親身なひびきが混った。よし子は、じっとゆみ子を見詰めていたが、
「ゆみ子、考えてよ。あたし心細いから、今夜、あんたのところへ泊めてもらうわ」
その夜から五日のあいだ、よし子はゆみ子の部屋に泊った。ゆみ子に頼ると同時に、捨て切れぬ疑いが、よし子をそうさせていることが分る。仁木がゆみ子の部屋にあらわれはしないだろうか、と見張る気持も、よし子の中で動いている。