十四
よし子は、ゆみ子にたいしての疑いを捨てた。
「ゆみ子、考えてよ」
縋りつく、甘えた口調になった。
「外に誰もいないとすると、家の中にいるのじゃなくて」
「とんでもないわ。仁木が独身だということは、間違いないわ」
その調べは、ずいぶん以前に済んでいた。仁木を最初に「銀の鞍」に連れてきたのは、彼の会社の課長である。その課長と仁木自身から、よし子はそれとなく聞き出していたのだ。
仁木の叔母、つまり父親の妹が、彼を少年の頃、養子として引取って育てた。叔母は配偶者とは若い頃死別している。その死んだ夫の遺した不動産のために、金には不自由していない。仁木がその年齢や地位にふさわしくない「銀の鞍」へ通ってこれたのは、そのためである。縁談もこれまでに幾つかあったが、叔母の好みに合わないという理由で纏らなかった、という。
「つまり、母親と同じわけなのよ」
「それでは、その叔母さんに気に入られれば、縁談は纏るということね」
ゆみ子は会話の成行で、そう言った。仁木の縁談の相手として、よし子を考えたわけではなかった。しかし、よし子の顔がにわかに輝いた。
「そう、そうなのよ。なぜいままで気が付かなかったのかしら」
歳暮の時期だった。よし子は桐箱に入ったアルバムを買い整え、店からの使いという名目で、仁木の家を訪れた。昼間、仁木の留守を選んだ。黒いスーツを着て、控え目に化粧した。
仁木の叔母は、年齢の分らぬ女だった。三十代にしか見えない。黒い布をターバンにして、髪を高く上げている。
「あら、そんなご挨拶をいただくほど、美喜雄ちゃんは、あなたのお店に伺っておりますの」
美喜雄ちゃん、という名前が、赤く塗られた唇の上で粘ってから、出てきた。叔母はよし子を確かめるように眺め、
「でも、あなたのようなかたのいらっしゃるお店なら、安心ですわ。お電話、伺っておこうかしら」
玄関先の会話なのである。叔母はいったん奥へ姿を消し、メモ用紙とペンを持って戻ってきた。立ったまま、ペンを構えた。スラックスに包まれた脚が、かたちよく伸びている。ペンを握った指の爪が、銀色にマニキュアされているのが、よし子の眼に映った。
その後、仁木の叔母から「銀の鞍」へしばしば電話がかかってくるようになった。
「美喜雄ちゃん、行っておりまして。もし伺ったら、あまりお酒を飲まないように、と言ってくださいませね。あたくしの言うことを聞かないので、ほんとに困ってしまいますのよ」
あるいは、
「美喜雄ちゃん、伺っておりませんの。ほんとに毎晩どこへ行ってしまうのかしら。あなたのところなら、あたくしも安心なのですけれどねえ」
よし子の打明け話は、仁木の叔母のことばかりになった。信頼され、気に入られている、とよし子は解釈している。しかし、ゆみ子には、叔母という女の言葉は、あいまいな割り切れぬものとして伝わってくる。皮肉なひびきも、その言葉から感じ取れた。上機嫌になっているよし子を薄気味わるく眺め、よし子の頭の中の一部が崩れ落ちて暗い空洞になっている景色が、眼に浮んできた。
「わたくしも、気が気ではございませんのよ」
気取った、そのくせ甘えた声を、電話機に向って出しているよし子を見て、ゆみ子は不吉な不安な気持になる。「違う……」という言葉が浮んでくる。どういう具合に違うのか、明確には分らなかったが。
よし子が近寄ってきて、ささやいた。
「仁木の叔母さまが、あたしに会いたいと、おっしゃるの」
そのいそいそした態度と明るくなった顔を見て、またしてもゆみ子は、「違う……」とおもってしまう。