十八
その夜、小さな出来事が、油谷のいる席で起った。その席には、客は油谷一人、その傍にゆみ子、向い合ってよう子とるみが坐っていた。
調子よく進んでいる酒気を帯びた会話のなかで、よう子が言った。
「だって、油谷さんは身内みたいなものだもの」
あきらかにお世辞と分るそらぞらしさがあったが、しかし悪意はない。油谷にたいしての好意が基盤になっている言葉である。油谷も、その言葉を正確に受止めて、
「身内ということはないが……」
しかし、目立って上機嫌になり、饒舌になった。
身内だとおもったりすると謬《あや》まるが、許してもらっていることを感じるときはある、と彼は喋り出した。気が付かないで、危い橋を渡っていることもあるのだろう。獰猛《どうもう》さが近所で評判の犬の頭を、何も知らずに撫でている少年がいる。門の前の陽だまりに寝そべって、前足に顎を載せ、じっと蹲《うずく》まっている大きな犬である。犬好きの少年が、傍にしゃがみ込んで、好意にあふれた無邪気な手でその頭を撫でる。
犬は、その手を煩わしく感じるが、あまりに率直に示された好意に半ばは感応して、尻尾を動かす。コンクリート地面に横たえてある尻尾の位置を、右左と二、三度変える。しかし間もなく、少年の手が五月蠅《うるさ》くなってくる。いきなり噛み付くのも大人気ないとおもい、咽喉の奥で低く唸り声を出してみる。
満足して咽喉を鳴らしている、と少年は勘違いをして、掌の位置を移し、咽喉の下を撫で上げはじめる。犬は横目で少年を睨み、片側の歯を剥き出しにして、唸り声をやや高目にする。
「そこまでになれば気が付くが、尻尾を面倒くさそうに振ったあたりで、立上って歩いて行ってしまう少年がいるね。その犬と仲良くしたという満足した気持で、行ってしまう。そんな男の子に似た立場のこともあるのじゃないか、とおもうわけだ」
比喩が面白かったので、ゆみ子は声をたてて笑った。るみもよう子も笑っている。不意に、背後で男の笑い声がひびいた。ゆみ子が振向くと、両手のあいだにシェーカーを挟んだ木岡が、リズミカルに躯を揺すりながら、笑い声をたてている。その笑い声はながながと続き、口がわざとらしく開いている。
木岡とるみの視線が宙で絡まり、その瞬間るみの笑いが大きくなり、伸ばした手で油谷の膝頭を叩いた。それは無意識の動作であったようで、その手をいそいで引込めると、拡がり過ぎた笑いを縮めようとした。
油谷は振返ると、木岡に言った。
「聞えたのか」
「面白いことをおっしゃるもんで……」
またひとしきり、笑いが続いた。油谷は慎重な眼になった。話の効果にくらべて、笑いが大きすぎる。ゆみ子も、怪訝な気持になっていた。笑いの消えたゆみ子の顔と、よう子の顔とを、油谷はたしかめるように眺め、とぼけた口調で言う。
「これはどうも。噛みつく犬の頭を撫でたことがあるのかな。それとも、撫でようとしたのかな」
こらえきれぬ笑い声が、ふたたびるみの口から洩れ、背後で木岡の笑い声がわざとらしくひびいた。笑わないのは、ゆみ子とよう子である。依然として慎重な油谷の眼に、一瞬、怯えが走った。よう子は黙って、油谷の顔を見詰めている。いや、油谷の方に向いているその眼は宙を見据えていて、眼の光は内側にこもり、ガラス玉のようになっている。かすかな怒りが、眉のあいだに浮んでいる。
るみはにわかに笑いを収めた。酔いにまかせて失言したあとの白けた気配が漂った。
「つまり、ぼくはトクをしているというわけだな」
気拙《きまず》い沈黙を救うように、油谷が言い、よう子がはじめて口を開いた。
「そうよ、危いところを助かっているのよ」
「もう一度くらいは、許してもらえないかな、どうでしょう」
「駄目でしょうね」
よう子は、ガラスの眼のまま、答えた。