十九
閉店の時刻が近付くにつれて、酒場の中で流れてゆく時間は煮詰ってくる。客も女たちもさりげない顔つきをしているが、頭の中は烈しく回転し、気配を窺う視線が素早く動く。
「誘えるだろうか、駄目だろうか」
客の頭の中にあるのは、おおむねそのような考えである。もっとも、客のすべてがそのようなことを考えているわけではない。帰りのタクシーが拾えるかどうかの心配をしている客もあるし、女たちを送りとどけてまわることを鷹揚に考えている自家用車をもった客もある。
しかし、女たちの頭の中にあるものは、もっと生活に密着している。女たちの考えはそれぞれの分に応じ、あるいはその日の状況によって違っている。自家用車で送りとどけられる女たちの数に入って、電車賃を節約しようとたくらんでいる女。美貌の同僚に便乗して、深夜の食事に誘われることを考えている女。だが、いつも脇役とは限らない。誘われる夜もある。その誘いをチャンスと見做してよいものかどうか。
一軒店を持って独立できる機会が、眼の前にきているのかもしれない。あるいは、結婚してこの世界から出てゆく機会がきているのかもしれない。受止める姿勢を間違えては、機会は掴めないのだ。
よう子は、その緊迫した時間の外にいる。誘いはすべて巧みに受流す。時折、木岡に電話がかかり、間もなくよう子が註文を取りに立上って木岡との間に短かい会話がある。しかし、電話のかかった夜もかからぬ夜も、よう子の行動は同じだ。一人だけで店を出て、闇の中に姿を消す。
その夜、十一時過ぎに、電話があった。店の女の名を呼ばず、木岡が応答して、電話を切った。よう子が立上る筈だ、とゆみ子は注意を向けていたが、動く気配がなかった。
よう子のいる席に、木岡は顔を向けている。その顔に、困惑の表情が浮んだ。しばらく躊躇《ためら》っていたが、カウンターを出て、歩み寄ってきた。よう子の背後にまわって立ち、背を跼《かが》めて耳もとに口を寄せた。
神妙な表情が、木岡の顔に浮んでいた。声は聞き取れなかった。
「厭よ」
小さいけれど鋭い声で、よう子が言う。
「気分がすぐれないわ」
「しかし……」
「あんたのせいよ」
木岡はそれ以上、何も言わず、神妙な表情のままカウンターの中に戻った。ゆみ子は、木岡の動きを眼で追っていた。先刻のけたたましい笑い声と、今の神妙な顔。その二つの両極の間を、木岡の心は揺れ動いているらしい……。そのことだけは分る、と考えながら眺めているゆみ子の眼と、木岡の眼と出会った。
木岡の眼が、はげしく光った。挑む眼だ。誘われる、とおもったとき、油谷の声が聞えた。
「きみ、今夜は一緒に帰ろう」
油谷の誘いに応じることで、木岡から身を躱《かわ》そう、と咄嗟にゆみ子は考えていた。木岡の挑む眼が、厄介なことに巻き込まれる予感につながっていた。
「ええ」
ゆみ子が答えると、油谷がるみに言った。
「きみを、誘ってはいないのだぜ」
「つき合ってあげるとは言っていないわ。今夜は約束があるの」
「よう子さんは、夜はまっすぐ家へ帰る人だからな」
「そうよ、油谷さん、ゆみちゃんが噛み付かないという保証はないのよ。しっかり頑張ってね」
と、よう子が言い、油谷は一瞬戸惑った顔で、あらためてよう子とゆみ子とを見くらべた。