二十一
やがて油谷は起き上ると衣服を付け、寝室につづく板の間に置かれている椅子に腰をおろした。煙草に火をつけ、吹かした煙の行方を眼で追い、曖昧な表情になっている。
考え込んでいるようにもみえる。
「男を知らない、とおもったのでしょう」
「違うのか」
「当り前じゃないの。もう長い間バーには通っているのでしょう」
「だが、そういうことだって有り得る」
「そうおもったとき、油谷さんて、喜ばないのね。面倒なことになる、という心配の方が先のようね」
「喜び過ぎて、駄目になることだってあるさ。血がみんな心臓と脳味噌に集ってしまって、下半身は貧血してしまう」
「それじゃ、喜び過ぎたの」
「さて、どうなのだろう」
「あたしも、面倒なことは厭なのよ。油谷さんと同じだわ。心配することはないわ」
彼は黙って、向い合った椅子に腰掛けたゆみ子を眺めている。その顔の曖昧さが、一層濃くなった。
「つまり、そのこういうわけだ……」
言いにくそうな口振りで、口ごもった。不能を恥じて、新しい弁解の言葉を言い出そうとしているのか、とゆみ子はおもった。しかし、違っていた。
「おれは、きみよりも、たくさん稼いでいる。水は高い方から低い方へ流れてゆくだろう。多い方から少ない方へ流れるのは、当然のことだ」
「どういうことなの」
「つまり、きみに小遣いを……」
彼の手が、内ポケットに入った。
「やめて……」
椅子からおもわず立上り、彼に背を向けてベッドの端に坐った。涙が滲んだ。躯を堅くして坐っている肩を、油谷の手がおさえた。
「泣いては困る」
気軽な言い方だったが、ゆみ子の顔を覗きこんだ顔に、困惑の表情があらわになっている。
「そんなつもりで、ここへ来たわけじゃないのよ」
「おれも、そんなつもりじゃない」
「では、どんなつもりなの……。心配することはないわ。面倒なことは、あたしも厭だと言っているでしょう」
背広の内側に差し入れた手が戸惑っていて、指先が内ポケットの縁にかかったままでいるのが見える。
「しかし、おれも女の子に小遣いを渡さないで、浮気のできる齢ではなくなっているのだからな」
彼の表情から、曖昧さが消えてきた。
「だって……」
「惚れたわけじゃないのだろう。それならば、話は別だが」
「惚れられてかまわないの。面倒なことになるわよ」
「…………」
「だから先手を打って、お金の取引の形にしようとしたというの。すこし、自惚《うぬぼれ》が過ぎやしないかしら」
「取引などというつもりはない」
「五分五分の浮気……。それでいいじゃないの。それに、浮気というほどのものではなかったわ」
その言葉で、彼は決心を定めたようだ。指先が内ポケットに潜り、大型の紙幣をつまんだ手がゆみ子の前に差し出された。
「五分五分の浮気だよ。五分五分だから、水が高い方から低い方に流れてゆくわけだ。きみも道楽で水商売をしているわけではないのだろう。恥をかかさないでくれ」
彼の手がゆみ子の手首を掴んだ。掌の上に、紙幣が置かれた。
紙幣に触れた掌の皮膚が、はげしく緊張した。熱したアイロンを押当てられたように、皮膚が焼けた。躯を売ったわけではない。また、油谷も取引という形にしておこうとする企みを持ったわけではない。渡すときに、微妙な心遣いを示したのだが、しかしその紙幣はゆみ子の掌を焼いた。
酒場の女としての洗礼を受けた、とおもった。聖水盆の透明な水が頭にしたたったのではなく、頬に飛び散る濁った水を、ゆみ子は感じた。