二十二
ホテルを出たとき、頭上のネオンの赤紫色が、骨髄を蝕《むし》ばむ病菌の色にみえた。油谷と別れて、部屋に戻り、ゆみ子は布団に深く潜った。俯せになってシーツを噛み、呻《うめ》き声を上げた。
そんな神経では苦労が多い、と言った木岡の声が耳の奥で繰返し鳴った。油谷を恨む気持はすこしもなかったが、呻き声は長いあいだ続き、やがて眠りに落ちた。
悪い夢が、いくつも重なった。
翌日の昼過ぎ眼を覚ましたゆみ子は、部屋の様子がいつもと違うように感じた。布団の中で腹這いになり、首をもたげてあたりを見渡す。黄色く焼けた畳、小さな卓袱台《ちやぶだい》の上に置かれた電気湯沸器、整理戸棚の上の花のない花瓶……、何一つとして変ったところは無かった。
枕もとに投げ出されてある模造皮のハンドバッグが眼に映ると、ゆみ子は手を伸ばして掴もうとした。寝衣の袖がめくれ上り、裸の腕があらわになると、ゆみ子の掌は掴もうとした形のまま宙で停った。ゆみ子の眼のすぐ前に、二の腕の内側があった。
薄く脂の浮いている肌は、色素が濃くて小麦色である。ゆみ子は首を深く曲げ、顔を二の腕の付根に埋めた。肌が鼻梁の固さを感じ、腕の内側に軽く歯を当てた。体臭がにおった。悪夢で滲み出た汗の名残とまじって、やや強くにおった。
ゆみ子は顔を上げ、あらためてハンドバッグを掴んだ。煙草の箱とライターを取出して、腹這いのまま火をつけた。唇から出た煙が、枕もとの畳を這うのが眼に映った。
寝床の中で、煙草を喫うのははじめてのことだった。そのことに気付くと、わざと自堕落に両肘をつき、唇をとがらせて煙を吹き出してみた。
「もう、なにも待ちはしない」
と呟いて、もう一度、部屋の中を見まわした。洗礼を受けた翌日、ゆみ子とその部屋とに喰い違いができていた。「待っている部屋よ」というよう子の言葉は、やはり正しかったようだ。ゆみ子の眼に映る薄汚れた部屋は、不満な気持を起させた。寝床を出て、洗面器にセルロイドの石鹸箱とタオルを容れた。風呂へ行こうとおもったのだ。畳の上に置かれた洗面器を、ゆみ子は立ったまましばらく眺めおろしていた。その洗面器をかかえて、サンダルを履いて、戸外へ出る自分の姿が、不満だった。
風呂屋の板の間に置かれたテレビでは、中年の映画俳優が母親についての記憶を語っていた。ゆみ子の部屋には、テレビは無い。ゆみ子は、孤児である。勝手にチャンネルを切り替えた。画面に、女の大写しの顔が出た。悩んでいる顔である。しだいにその顔が小さくなり、女の全身が画面にあらわれた。背景に、布団と電気スタンドと水差しがみえる。ホテルの一室をおもわせた。カメラが、和服を着たその女の肩から横腹を舐めながら移動し、腰の線から白い足袋《た び》をはいた足の先まで撫でおろした。流行の姦通ドラマなのだろう。
男の手が画面の女の顎にかかり、その顔をぐいと仰向かせたとき、ゆみ子は衣服を脱ぎおわった。浴場のガラス戸に、手をかける。
ゆみ子は、いつになく丁寧に全身を洗った。腿の内側を、ゆっくりと撫でるように洗い、ふと手をとめて、おもった。
「テレビが欲しいな」
夕方、「銀の鞍」へ出かける時刻が迫ると、混雑した電車に乗るのが億劫におもえた。新しい自動車を運転して、よう子が立寄ってくれるのを心待ちにしたが、毎日姿をあらわす筈がなかった。
身仕度をして、外へ出た。駅に行くには、商店街を抜けることになる。時折、立止って飾窓を覗いた。これも平素はしないことだ。幾つ目かの飾窓で、店の中に入り、舶来の香水を買った。
大型の紙幣をハンドバッグから出して、支払いを済せた。油谷に渡された紙幣は、数枚の千円札と硬貨に替った。掌の上の硬貨に、一瞬視線をとめたゆみ子は、商店街を抜けると、タクシーに向って手を挙げていた。
車内で、香水瓶の口を開き、指先を液で濡らすと耳朶に滲ませた。顎を上げて頸を伸ばした。しぜんに唇がすぼまって、接吻の形になった。ちょっとの間、唇をそのままの形にしておいたが、唇の前の空間には特定の男の顔が浮んでこなかった。もう一度、指を濡らし頸の皮膚に指先をにじり付けるようにして香水を塗った。
指先が濡れ過ぎていたのか、皮膚が刺戟を受けてかすかに痛んだ。その刺戟が、一つの記憶を引出した。数日前、読んだ翻訳本の一場面である。それは、吸血鬼の小説だった。柩《ひつぎ》から脱け出した吸血鬼は、紳士の姿をして犠牲を求めて歩きまわる。眠っている犠牲の女の上に、彼は大きなマントを黒い鳥の翼のように拡げて覆いかぶさる。そして、頸の片側、丁度いまゆみ子の指先がおさえている部分に唇を押当てて、血を吸い出す。
そのときから、犠牲は不死の女人になる。しかし、夜の闇が降りてくると、彼女は新しい犠牲を求めてさまよい歩く。彼女も、吸血鬼に変身したのだ。
ゆみ子は頸の片側に、指先を押当てたまま、しばらく宙に眼を据えていた。