二十五
十日のあいだ、油谷は「銀の鞍」に姿をあらわさなかった。その十日間に、店の十一人の女たちがゆみ子の眼に、以前とはかなり違った姿で映ってくるようになった。ゆみ子自身の眼の在り方が違ってきたためで、
「酒場の女になってきたわ」
と、自分の眼を意識して、ゆみ子はそうおもった。
ゆみ子の耳に届く女同士の会話の断片が、女たちの酒場以外の生活を鮮かに浮び上らせる場合もあった。いろいろの女たちがいて、いろいろの生活を送っているようだった。皆どこかに、暗い影を引きずっているようだった。
ゆみ子は椅子に坐り、押しつけてくる客の横腹から躯をずらして、店の中を見まわした。京子、ひとみ、悦子、雪子、三千代、なな子、れい子。半透明な女たちの躯があちこちの椅子に坐っているが、十日前にくらべて、朧ろで曖昧な磨ガラスの外皮が、透きとおりはじめているのを感じた。
悦子という女。卵型の顔に撫肩で、いつも和服を着ている。十歳ほど年上の病気の夫を持っていて、貞淑である。閉店時刻になると、客の誘いを断って姿を消す。寄り道せずに帰宅することについての証言は、たくさん集めることができる。食べ残したオードヴルの皿に視線を走らせている悦子の顔を見て、その食物を紙にくるんで夫の枕もとに持って帰りたい気持が動いているのではあるまいか、とゆみ子はおもったことがある。おそらく錯覚だろうが、そういう気持を起させる陰気な貞淑さが、悦子には備わっている。
なな子。大柄の色の浅黒い女で、外国の映画女優風の化粧をしている。男より女が好きだという噂があり、酔うと客に露骨な話をする。節度を失った露骨さで、なにものかが、彼女を駆立てているようにみえる。「若い女の子をつかまえてね、教えてやると面白いわよ。途中まで教えてやって、あとは自分でおやり、と放っぽり出すと、自分で続きをやってるわ……」というような、なな子の話声が耳に届いたことがある。正常な性行為では満足しない、という意味の話声が、聞えてきたこともある。なぜそうなのか、と考えると、なな子の躯の中の黒い傷痕の存在を感じてしまう。古い傷だが、いつも黒い血を滲ませて、乾ききらぬ傷痕である。
雪子。丸い愛らしい顔で、やや斜視である。襟刳《えりぐ》りの狭い洋服を着ているが、首の付根とわずかに覗いている胸の皮膚が、抜けるような白さだ。なな子とつながりがあるという噂で、もしも雪子の胸をあらわにすると、そこにたくさんの爪痕や青い痣《あざ》が並んでいるようにおもえてくる。なな子の爪の痕である。いつも胸の隠れる洋服を着ている雪子をみると、ゆみ子はそのことにほとんど確信にちかいものを持った。
そして、るみ。
るみのことは、前からよく分っている心持が、ゆみ子にあった。
「油谷さん、しばらく見えないわね。どうしたのかしら」
ゆみ子は、何気ない口調でるみに話しかけた。油谷の姿を見ない日数は十日、という数字が正確にゆみ子の頭に浮んでいる。るみには油谷との関係を見破られたとしても構わない、という気易さがあった。
「あら、知らなかったの。いま、仕事でパリにいるのよ、明日帰ってくる筈だわ」
油谷がフィルム輸入の商用で外国出張中という事実を告げたわけだが、るみのその口調には、客の動静を報らせるだけのものとは違う気配があった。なぜ、るみは知っていて、自分は知らなかったのか。
るみのことはよく分っている、とおもっていたが、具体的な事柄は何一つとして知っていないことに、ゆみ子ははじめて気付いた。
最初油谷に誘われて旅館に入ったとき、ゆみ子はるみにその場を切抜けるための役目を頼んだ。頼んだとき、一瞬、るみは不機嫌な顔をみせた。面倒で、億劫なための顔つき、とおもっていたが。るみが先なのか、自分が先なのか。るみは、知っているのか、知らないのか。花札を引いて過した一夜のために、るみが安心しているとも考えられるが……。
ゆみ子は、るみの顔を眺めた。にわかに、るみの躯が不透明な外皮に包みこまれてしまうのが、ゆみ子の眼に映った。