二十九
黄色く陽に焼けた畳の上に立って、油谷は部屋のなかを見まわした。
「素直な部屋だな」
と、彼は言い、それは辱《はずか》しめる言葉のように、ゆみ子の耳に届いた。
「待っている部屋、とよう子さんは言ったわ」
おもわずそう言ったが、反駁している気持にはなれない。部屋の質素さに、誇りを持った気持になれない。もう何も待ってはいない、待つということは別の世界の事柄なのだ、とゆみ子はおもう。
「待っているって、なるほど、バスがないと不便だろうな」
「違うわ。そういう意味ではないの。身もちをよくして、待っている……」
「結婚する相手を待っている、つまり、そういう意味か。よう子でも、そういう考え方をすることがあるんだな。……ところで、ゆみ子さん」
呼びかけて、彼は確かめる眼で、ゆみ子を見詰めた。その視線を鋭く感じながら、ゆみ子の心は揺れ動いていた。たしかに、彼は自分の名を呼んだが……、と彼女は部屋のなかを見まわした。バー「銀の鞍」のゆみ子という女は、二年前にこのような貧寒とした部屋で、ガス自殺を遂げていた。待つことに草臥《くたび》れて、死んでしまった……。わたしは、ゆみ子ではない。わたしの本当の名は、よう子なのだ。と彼女は心の中で呟くのだが、そのよう子という名が、「銀の鞍」のよう子の名と重なり合いはじめる。
よう子の名と、ゆみ子の名の中央に立って、揺れ動いている自分を彼女は感じている。
「ゆみ子さん……」
もう一度、念を押すように、油谷は言い、
「まだ、待っているのか」
油谷の言葉で、彼女はゆみ子という名に規定された心持になり、その名を押脱ぐように答えた。
「もう、待ってはいないわ」
「そうか」
ふたたび、彼は確かめる眼になった。その眼が厭で、彼女は問いかけた。
「油谷さん、よう子さんと……、あったのでしょう」
「…………」
「一度だけだけど、関係があったことが分っているわ。この前のお店の会話で分ったのよ」
「そうか」
「よう子さんのこと、教えて。そのときも、油谷さんは駄目だったの」
「なぜ、そんなことを知りたいのだ」
「知る必要があるの」
「知りたいのは、おれのことなのか、よう子のことか」
「よう子さんのこと」
ゆみ子という名を拒否したいま、よう子の名へ向って手探りしている自分を、彼女は感じている。
「よう子のことを、詳しく知っているわけではないさ。したたかな女だということは、はっきりしているが」
「なにか、被害を受けたの、こわい男が付いているという話だけれど」
「知っているのか。しかし、客に圧力をかけてくるような安っぽい商売をする男ではない。そのほうが、本もののこわい男ということでもあるが。したたかと言ったのは、そういう意味ではない。よう子というのは、男にたいしてどこまでも女になれる。そのしたたかさだ」
「分らないわ」
「分らないだろうな。つまり、あの女は、男の加える力をどこまでも受容れる。男の力に従順というより、むしろ喜んで受容れる。どんなみっともない恰好でもしてみせる女だ。躯に傷が付かないかぎりはね。傷がつくと、こわい男にたいして、具合がわるいにちがいない」
「それが、どうしてしたたかなの」
「どこまでも女になれる相手からは、結局、男はしたたかさを感じとるものさ。いまに、きみも分るときがくる」
そう言うと、油谷は彼女の手首を掴んだ。強張ったその躯には触らず、油谷は彼女の人差指の先をつまみ、ゆっくりと反らせはじめた。その指はよく撓ったが、手首から五センチほどのところで限界がきた。
「痛いわ。やめて頂戴」
「もし、この指がおれの力をどこまでも受容れて反っていったとしたら、薄気味わるくなってくる。そして、その指をしたたかなものにおもう、つまりそういう感じだ」
と油谷は言い、彼女の指を離した。
想像の中のよう子と、油谷の話の中のよう子が一致していることを、ゆみ子は知った。折れそうに繊弱だが、よく撓う強靱な躯である。その躯が、油谷の手で椅子に嵌めこまれ押据えられて、醜く捩れる情景が、眼に浮ぶ。歪み捩れることが、その躯を刺戟し、白くなめらかな皮膚のひろがりが、薄桃色に染まり青い静脈の模様に彩られる。
醜い恰好を悦んでいる躯である。その想像が、一瞬ゆみ子を刺戟し、すぐに嫌悪に変った。
「分ったか」
油谷が、ゆみ子の顔を見詰めて、言う。
「分るけど、厭だわ」
「そうだろう。そうでなくては、嘘だ」
と油谷は言い、しばらく間を置いて、
「しかし、この部屋はきみに似合わないな」
「なぜ、ですか」
「きみの躯がこの部屋から、はみ出している。もう待つことはやめた、と言ったじゃないか」
「でも……、それで」
「それで、と言われると、困るが」
一瞬、油谷はひるんだ眼になり、部屋のなかを見まわすと、
「遅くなった。もう帰る」
ふてぶてしい口調になって言ったが、出口へ向う背中の線に曖昧さが浮び上っていた。