三十
部屋から躯がはみ出している、という油谷の言葉が、ゆみ子の躯に滲み込んだ。ゆみ子という名を、自分の躯から引剥がそう、と彼女はおもった。たとえ、引剥がすことができても、「銀の鞍」ではゆみ子の名から脱れることはできないが……。
その夜から、ゆみ子の注意が、一層よう子に集中しはじめた。しかし、いくら注意をよう子の身辺に向けても、よう子の日常は平素とすこしも変らない。十一時過ぎに、電話のベルが鳴り、バーテンの木岡が短かい会話を電話機と交す。何気ない態度で、よう子がカウンターに歩み寄り、木岡と二こと三こと話し合う。閉店時刻になると、よう子は素早く姿を消す。電話のないときも、姿を消すことは、同じである。
それが、よう子の日常生活の締めくくりの一齣である。特殊な情景としてではなく、よう子の日常として受取れるところに、よう子のしたたかさが感じられる。そして、よう子はいつもなめらかな、爪のかからぬ白い顔で、「銀の鞍」の椅子に坐っている。
その姿をみると、ゆみ子は自分とよう子との間にはるかな距離を見て取ってしまう。そして、中途半端の場所で、揺れ動いている自分を痛いほど感じる。
従業員慰安の春の旅行がおこなわれた。よう子は欠席した。この種の旅行は、一つには働いている女たちの義務である。億劫な面が多いのだが、欠席できない行事なのだ。
「よう子さんて、勝手ができていいわね」
箱根の麓から山を登ってゆく電車の中で、なな子が棘のある口調で言った。
「あら、なぜかしら。旅行って、愉しいじゃないの」
隣の席に坐っている雪子が、なな子に媚びるように言う。なな子は、掌を雪子の腿に這わせ、
「おまえは、別だよ」
と言ったが、眼は向い合わせの席のゆみ子とるみを等分に見比べている。
なにを考えながら、なな子は見比べているのだろう、とゆみ子はおもう。なな子の考えは分らない。しかし、見比べられることによって、油谷がゆみ子とるみの間に訪れてくる。油谷とるみとは、いったいどういう形の繋りなのだろう、とゆみ子はおもい、
「それよりも、自分と油谷との繋りは、どういう形なのだろう」
という疑いに捉えられる。そういう疑いを引出す役目をしたなな子の眼を、咎めるように見返し、視線を隣席の雪子に移す。ゆみ子は、眼の前の二人の女を、見比べた。
雪子の着ている洋服は、いつものように胸を覆い隠している。雪子の腿に置かれたなな子の掌は、指先が深く曲ってスカートの布に喰い込んでいる。雪子の胸に、たくさんの痣と爪痕が並んでいることに、ゆみ子はあらためて確信を持った。
ゆみ子は、考えごとが一段落した気分になり、煙草に火をつけた。ゆっくりと煙を吐き出し、車窓の外に眼を放った。早春の山と谿は、やわらかい緑におおわれている。葉を落さずに冬を越した常緑樹も、黒味がかった緑の葉を隠そうとするように、淡い緑の葉が萌え出ている。
夕暮には、まだ間のある時刻で、春の陽光がやさしく景色を照らしている。
「るみちゃん、綺麗よ」
ゆみ子は、るみの肩を指先で突いて、注意を促した。このような風景に囲まれて、陰気な、ときには陰惨ともいえる人間関係に、考えをめぐらせていた自分を、ゆみ子は疎ましくおもったのだ。
一瞬、るみは肩をすぼめ、眼を宙に浮かした。そして、窓の外に視線を向けたが、興味なさそうにすぐに眼を景色から離した。
「あなたたち、一緒の部屋にするのでしょう」
なな子が声をかけてきた。ゆみ子も景色から離れ、なな子の眼を見た。その眼に映っている、自分とるみの繋りには、油谷が役割を与えられているのだろうか。それとも、るみと直接結びつけて、なな子は考えているのだろうか。
「一つの部屋に四人と聞いているわ。あたしたちと、あなたたちと、四人で一緒になりましょうよ」
断る理由はない、確かめたいことのための好い機会ともいえる。ゆみ子は頷いた。
「いいわよ、今夜はうんと酔っぱらっちまうから、介抱が大変かもしれなくてよ」
傍で、るみの声が、なな子に答えた。