三十四
ゆみ子は、自分に向けられる男の眼の一つ一つが鋭く意識にのぼるようになった。その度に、油谷の影像を呼び寄せ、その陰に躯を隠した。
身を守るための道具として、油谷を使っている。それは、ほかに呼び寄せる男がいないためだ。心を油谷に向けて、執拗な視線から脱れようとするわけだが、心を向けるということは、心を寄り添わすこととは違う、とゆみ子はおもう。依然として、油谷が自分にとって何者なのか、ゆみ子には分らない。
幾日か経って、油谷が「銀の鞍」に姿を現わした。小雨の日で、油谷はレインコートを着ていた。ゆみ子は歩み寄り、うしろにまわって、レインコートを脱ぐ手伝いをした。ゆみ子の眼の前に、油谷の背中があり、背広の上着は布地と煙草と男のにおいがした。ゆみ子はその上着に顔を近寄せた。おもわず息が深くなり、上着のにおいが肺の中に流れこんできた。
「わたしのための楯」
と、ゆみ子は心の中で呟く。
その背中のうしろに、しばしば身を隠してきた、とおもう。寄り添ったり、取縋ったりしたこともあったような気持が、ゆみ子の中で揺れた。
油谷に心が傾いた、とはおもわなかった。親しい心持で、ゆみ子は油谷の傍に坐っていた。しかし、油谷が立上れば、ゆみ子も立上ってそのまま背中に寄り添ってしまいそうな心持だった。
ゆみ子が酒を運ぶために立ったとき、木岡が合図を寄越した。近寄ると、彼は小声で、
「今夜、話がある」
「…………」
「まじめな話なんだ。ちょっと混み入った話だが」
木岡には、誘われまい、とおもった。
「今夜は、都合が悪いわ」
「まじめな話だ」
木岡が繰返し、気にかかるところもあったが、ゆみ子は首を左右に振った。
「今度にして頂戴」
席に戻り、油谷は誘うだろうか、とおもった。木岡が執拗な視線を向けてきているのが分り、油谷に誘ってもらいたい、とおもった。そのときには、やはり油谷はゆみ子にとっての楯であった。
「今夜、一緒に帰ろうか」
しばらくして、油谷はゆみ子に言った。やはり、眼は前の席のるみに釘付けにしたままで、そう言った。