三十五
その真夜中、ゆみ子は油谷の力に逆らう気持にならなかった。ゆみ子の躯は、椅子に押据えられ、二つの肘かけのあいだに嵌めこまれた。
「恥ずかしい恰好をさせて、と言いなさい」
奇妙に冷静な声が、ゆみ子の耳もとでささやいた。
「言えないわ」
この前のときには、「厭」と言った。そのことをゆみ子は思い出しながら、ゆっくりと首を振った。
「言いなさい」
「言えない……」
語尾が嗄れ、そこに快感がかすかに滲んだようにおもえた。抗う心の底に、新しい力が加えられるのを待っている気持が、かすかに揺れているのに、ゆみ子は気付いた。るみの顔と、乳房の赤紫色の痣が、眼に浮んだ。
るみに近付いて、重なり合おうとしているのだろうか……。違う、とゆみ子は感じた。もっと素直に、自然に、躯が新しい力を待っている。女の躯にとっては、はるかに大きな体重によって押潰され、荒々しく押拡げられることが自然であるように、ゆみ子の躯は素直に待っている。
油谷の手が、この前の夜と同じに、動きはじめた。裸の胸が、ゆみ子の顎に押当り、肩から横腹に沿って下へ移動した彼の掌が、ゆみ子の一方の脚をすくいあげた。ゆみ子の右脚が、椅子の肘かけに深く掛り、躯が捩れた。
つづいて左脚がすくい上げられ、もう一方の肘かけに掛った。一瞬、ゆみ子の躯が堅くなったが、すぐに強張りをほどいた。腰が深く椅子の上に落ち、両脚の拡がりが一層大きくなるのを感じたとき、ゆみ子は突然、捩れた快感の気配を覚えた。
眼をつむり、ためらいながらその快感に身を委せかけたとき、耳の奥で気遠《けどお》く鳴る音があった。
こおーん、こおーん。
幻聴である。短かい迷いののち、それが何の音か分った。澄んだ、しかしうつろな音。湯気の立てこめた浴場で、空の桶を伏せてゆくような音。
二年前、青年と指先をからませ合いながら霧の街をさまよって歩き、幸福だとおもっていた頃、立入禁止の芝生に坐っているとき聞えてきた音。気遠くなるようなあの音は、凶兆だったのかもしれない。芝生に青年と躯を寄せ合って坐っている背後の闇のなかで、女の啜泣きの声がかすかにひびき、男の小さい声が思いがけぬ明瞭さで聞えてきた。
「もう、子供はつくらないことにしようね」
幸福だとおもった日々は、短かった。終りになるときがあるとは予想もできぬ幸福な日々だったが、別れが襲いかかった。兇暴といえる別れだった。別れてから、ゆみ子は子供を堕《おろ》した。背後の闇のなかの男の小さい声も、やはり凶兆だったのだろうか……。
こおーん、こおーん。
耳の奥で鳴る音に潜んでいた青年の姿が、不意にあらわになった。いや、黒い血を滲ませて乾ききらぬ傷痕があらわになったのだ。
そのことに気付くと、ゆみ子は捩れた快感の気配に、恐怖を覚えた。映画で観た砂地獄の光景が、眼に浮ぶ。ゆっくりと、しかし確実に、人間の躯が砂の中に吸いこまれ、頭の先が消え、精一杯伸ばした腕の指の先端が没し去ってしまう光景。るみの乳房の赤紫色の痣が、自分の胸にそのまま移動し、付着してしまう……。快感の気配に身を委せてはいけない、とゆみ子は鋭く感じた。
眼を見開いて、叫び声をあげようとした。開いた眼に、萎えていない油谷の躯が映ってきた。はじめて、油谷は危険な男になっていた。この前のときは、油谷の安全さにかえって危険を感じたのだが、いまは油谷をそのまま危険な男と受取った。
叫び声を押しとどめ、押殺し、できるだけ優しく静かに言った。叫び声を上げた瞬間に、襲いかかられるとおもったからだ。
「ここでは、やめて」
油谷の眼に、兇暴な光が滲んだのを見た。反射的に、ゆみ子は笑顔をつくって、同じ語調で言った。
「このまま、あちらへ連れて行って」
油谷がゆみ子の言葉に従ったのは、その語調のためではない。ゆみ子の姿勢と笑顔との奇妙な対照が、彼を刺戟しつづける力となって働いたためだ。
「笑い顔がよく似合う」
油谷が呟いたのを聞いて、ゆみ子はそのことを悟り、ふたたび恐怖を覚えた。その姿勢を崩さぬように、彼はゆみ子の躯を椅子から剥ぎ取り、宙に浮かし、ガラス細工を扱う慎重さで布団の上に置いた。
しかし、その瞬間に、ゆみ子の姿勢から異常さが拭い消されてしまった。椅子に嵌めこまれていたときとほとんど同じ姿勢でゆみ子は横たわっているのだが、布団の上ではその姿勢はそのままでむしろ正常なものになっていた。
油谷の眼に、戸惑う色が浮んだのを見て、ゆみ子はそのことに気付いた。
「女になるのはかまわない。でも、るみと同じになっては困る。女ではない、なにか別のものになってしまう……」
恐怖が薄らぎ、ゆみ子は眼を閉じて躯を横たえていた。油谷は、自分を鞭打つ表情になって、ゆみ子に覆いかぶさっていった。油谷の額に汗の粒が並び、辛うじて男としてゆみ子を抱いた。