三十七
木岡と並んで喫茶店を出てゆくのが、ゆみ子は疎ましくなり、一人あとに残った。煙草に火をつけ、ゆっくりと煙を吐き出す。空のコーヒー茶碗を前に置いて、女ひとりが煙草をふかしている図がゆみ子の眼に浮び、侘しい心持になった。
「よう子が妊娠……」
ゆみ子は、口の中で呟く。しかも子供を産むつもりだという。その子供は、待たれて生れてくるわけだ。数えきれないほどの男たちと交わってきたよう子の胎《はら》から生れてくる子供を、一人の男が待っている。よう子たちの人生は、どういう形に設計されているのだろう。自分は、たった一人の男の子供さえ、産むことができなかった……。
追い払ったつもりの厭な記憶が、このとき浮び上ってきた。
「銀の鞍」に勤めはじめる半年あまり前、葉子という名のほかには、名前は持っていなかった頃のことである。
木造二階建の古い陰気な病院で、薬品くさい漂白された白っぽさからは縁遠い建物だった。その二階の病室の木製ベッドに、葉子は横たわっていた。
薄暗い時刻になっていたが、電燈はまだ点されず、彼女は一人で病室に置き去りにされている。額に、脂汗が滲み出ている。彼女は腕を伸ばし枕もとのタオルを掴んで、額に押当てるようにして拭うが、間を置かず額はふたたび湿りはじめる。
近くに無人踏切があるのか、信号機の鐘の音が鳴りはじめた。鈍く単調な、そのくせ空気に滲みこむような音が、断続して鳴りつづける。ベッドに躯を横たえてから、もう何度、その鐘の音を聞いたことだろう。
信号機の音が、反射的に彼女を身構えさせる。間もなく、電車が走り過ぎる予告だからである。鉄道線路のすぐ傍に、病院は建っている。轟《ごう》っ、と電車の長く連なった車体を感じさせる響が伝わってくる。木造の建物と木製のベッドが揺れて軋む音が聞き取れそうである。ベッドの上の彼女の躯が、走り過ぎてゆく電車自体を感じ取る。電車の車体が病院の中を突抜けてゆき、彼女の躯の中を貫き通してゆく錯覚があった。
躯の中が、痛い。
絶え間ない痛みが、電車の轟音のたびに、一際強くなる。
彼女の足もとのベッドの木の枠に、水を満たしたガラス瓶が吊り下っている。水を入れてあるのは重味をつけるためで、そのガラス瓶を宙吊りにした一本の細い紐のもう一方の端は、ベッドの枠を越し、横たわった彼女の両脚のあいだに消えている。正確にいえば、その紐の末端は、彼女の子宮の中の胎児に結びつけられている。
妊娠五ヵ月になっても、彼女は決心が付かず躊躇《ためら》いつづけていた。青年とはすでに三ヵ月以前に別れていた。惨めな別離だった。腹の中の子供にたいして本能的な愛情が動くことがあったが、産む決心を固めようとする瞬間、産むことは青年を苦しめてやるためだ、という気持が湧き上ってくる。そういう気持で、子供をこの世の中に産み出したくはない、という考えがそれにつづき、決心が崩れてゆく。堕してしまおうという気持が強まるときもある。しかし、医院を訪れ、医師に事情を話し、手術台の上で醜い姿勢になる……。そのことを想像しただけで、烈しい苦痛を覚える。自分だけ苦しみ、青年が楽をしすぎる。堕してやるものか、と彼女はおもい、赤児をかかえて青年の前に立現れる自分を夢想する。
しかし、迷い、揺れ動いた末、彼女は病院のベッドに躯を横たえている。掻爬《そうは》の方法を用いるには、決心のつく時期が遅すぎていた。いま、彼女の足もとで宙吊りになっているガラス瓶は、人工分娩を促すためのものである。
上りの電車が通過してあまり間を置かず、信号機が警報の鐘を鳴らしはじめた。深夜、密室に一人で坐って、二つの掌で耳に蓋をしたり聞いたりすることを繰返すときの、気遠さと切迫感との混り合った心持を、その音は誘い出す。
霧の夜の芝生で聞えてきた、あの音を思い出す。あの気遠い音は、たしかに物悲しい切羽《せつぱ》詰った心持を、かすかに誘い出すものだった。それは、凶兆だったかもしれない。そしていま響いている信号機の音は、いまの彼女にとってはあきらかに悪い前兆といえるものだ。
間もなく、確実に、唸るような遠い音が轟音と変るときがやってくる。部屋が揺れ、彼女の躯が揺れ、水を満たしたガラス瓶が揺れ動く。