四十
よう子の姿が、「銀の鞍」から消えた。
「しばらく休んで、また出てくる」
バーテンの木岡はよう子の言葉を伝えていたが、もう戻ってくることはあるまい、とゆみ子はおもった。
濡れたホテルの赤い絨緞は、一層赤くはならずに、黒ずんだ色になった。血を失ったよう子は蒼白な顔色で、なまなましく拡がってゆく汚染の上に蹲まった。結局、救急車がきて、よう子を運び去った。よう子の胎の子は、失われた。新聞に報道される性質の事柄ではなかったが、その記憶をもった人々の前に顔を見せることは、よう子でもできないだろう、とゆみ子はおもった。
しかし、よう子の伝言としてばかりでなく、木岡は同じ言葉を自分の意見として口から出した。
「なに、すぐにまた、出てくるさ。平気な顔で出てくる」
「そうかしら」
疑い深く、ゆみ子が言ってみたが、
「そういうものさ。亭主とのあいだの子供を流産しただけのことじゃないか。いわば、悲劇のヒロインというわけだ。ゆみちゃん、きみは見舞に行っておいたほうが、いいよ。まんざら責任が無いわけでもない」
白い大きな枕に頭を埋めて、よう子は仰臥《ぎようが》していた。白い掛布団が胸から下を覆い、白く透きとおる顔だけが覗いている。入院がかえって休養になっているのか、眼から疲れが取れて、澄んだ光を湛《たた》えている。
躯が白い布団の下に消えて、小さい顔と大きな眼が、少女のようにみえた。
「いかが……」
ゆみ子がベッドの傍の椅子に坐って問いかけ、看護婦の姿が消えるのを見届けて、よう子が答えた。
「厭になっちまったわ」
「…………」
「しばらく、郷里《く に》に帰って気分転換だわ」
「それがいいわ」
しかし、少女のような顔になったよう子の口からは、逞しい言葉が出てきた。
「商売にケチがついちゃったもの。こういうときには、ゲン直しにしばらくぶらぶらしていた方がいいわ」
「…………」
「留守のあいだは、ゆみちゃんに委せるから、頼むわね」
午前一時のロビーの奥で、立上った男の姿が、ゆみ子の眼に浮んだ。ほとんど無意識のうちに、ゆみ子は油谷の影像を呼び寄せ、自分の傍に置いた。油谷でも、この場合には身を守る楯になる。そして、ほかに楯はない。そのゆみ子の様子に、よう子は窺う眼を向けて黙っていたが、
「でも、ゆみちゃんには無理かもしれないわね」
やがて、そう言うと、手を引出して白い掛布団の上に置き、
「裏切られるとは、夢にもおもわなかったわ」
「裏切るなんて、もともと、あたしは……」
ゆみ子が抗議する口調になると、よう子は笑いながら、
「ゆみちゃんのことを言ってやしないのよ」
掛布団の上から腹のあたりを片手で二、三度叩いた。その手つきが、自堕落にみえた。薄い布団をとおして、掌の当る肉の音が聞えるようにおもい、
「そんな乱暴な……」
「もう大丈夫よ」
さらに二、三度、よう子は小さい華奢な掌を、腹に強く打当てた。その度に、ゆみ子は、自分の胃の腑が突上げられるような感覚をおぼえた。
「こいつよ。こいつに裏切られた、と言っているのよ。まさか、とおもうじゃないの。一番ご信頼申し上げていたのに、ね」
よう子は、けたたましい笑い声をひびかせた。