四十一
ゆみ子のMENSESが、遅れた。嘔気がしばしば襲ってきた。躯が舌が、酸味を需《もと》めるようになった。
「まさか」
口に出して呟いてみたが、
「やっぱり」
とおもう気持のほうが強かった。そうおもうと、この一ヵ月の間にしばしば胎の底に手応えに似た感覚をおぼえた記憶が、ゆみ子に甦ってきた。胎のなかで育ってゆくもののある感じはなかったし、また、それを感じ取ることはできるものではあるまいが、たしかに手応えに似た感覚はあったのだ。
胎児の父親は、油谷のほかには在り得ない。しかし、産む気持を、ゆみ子はもてない。また、油谷との関係において、胎の子を利用しようとする気持もない。
誰にも告げず、黙って処理してしまおうか……。
「でも、それでは油谷がラクをしすぎる。油谷をそんなに気楽にさせておくことはない」
と、ゆみ子はおもった。
その油谷は、しばらく「銀の鞍」に姿をみせていない。九州一円に出張旅行をしている、とるみが言う。今度も、るみにだけ知らせて、彼は旅立っていた。
それなのに、久しぶりに姿をあらわした油谷は、るみを誘わずに、るみの眼の前でゆみ子を誘う。
「なぜ、るみちゃんを誘わないの」
油谷の耳に、ささやいてみる。
「きみの正常なところが、気に入っている。るみでは、もう役に立たない」
油谷がささやき返す。
道具扱いをされているとおもい、ゆみ子は屈辱を覚える。それに、案外、るみとは前の夜にすでに会っているのかもしれない、ともおもう。それなのに、頷いている自分に気付き、
「油谷には、二人だけの話があるのだから……」
と、ゆみ子は自分に言い聞かせる……。
ホテルの部屋で、油谷はゆみ子の背を壁に押しつけるようにして立たせ、堅く締めつけたブラジャーの中から乳房を引出そうとする。ゆみ子は背を跼め、両肩を縮めて、油谷の力に逆らおうとすると、一瞬彼は躯を離し、確かめる眼でゆみ子を眺めた。そして、念を押す口調で言う。
「正常なところがいい。馴れ合いの恰好では、もう駄目だ」
「でも、いつまでも正常では、つまらないのでしょう」
ゆみ子は、彼の手を避けて、身を揉む。背中に当ってくる壁面を感じた。
「どんな女でも、可能性を持っているからね」
自信に満ち、ゆみ子を掌に載せて操る口調である。そういう油谷に、ゆみ子は憎しみを覚え、切りつける気持で、しかしさりげなく言った。
「あたし、できたのよ」
「なにが、恋人でもできたのか」
「子供よ」
「なんだって、誰の」
「あなた以外に、おつき合いはないもの」
「そんな馬鹿なことが」
困惑と嫌悪が、油谷に露骨にあらわれた。油谷が祝福する道理のないことは、分っている。しかし、あまりに露骨な表情に出会ったゆみ子は、予定していなかった科白《せりふ》を口にした。
「いいのよ、あたし欲しかったのだもの」
戸惑った顔のまま、油谷はゆみ子を窺っている。困惑の色が一層濃くなるのをみて、「それだけが目的の科白ではない」とゆみ子はおもう。自分の言葉で、自分を救いたかったのだ。妊娠を告げたとき、祝福を受ける女たちの数は、少なくはない筈だ。それなのに、自分はいつも違う。二年前、恋し合った相手の子供を身籠ったときでさえ、違っていた。そして、今また……。その油谷の表情は当然のものといえたが、それでは自分が惨めすぎる。
油谷の攻撃的な姿勢は消えて、壁の前の躯から離れると部屋の隅の椅子に腰をおとした。向い合った椅子を指さし、
「ま、坐りたまえ」
煙草に火をつけた。煙がとぎれとぎれに、彼の口から出てゆくのを見ながら、ゆみ子は言葉をつづけた。
「心配しなくてもいいのよ。迷惑はかけないもの」
油谷の眼が、やや生色を取戻す。見えない水の中を手さぐりしているような測る眼になって、やさしい声で言う。その声は、猫撫声になってしまっている。
「それで、どうするつもり」
「産むわ」
「…………」
「大丈夫よ。迷惑はかけないから」
「しかし、きみ……」
その夜も、油谷の躯は萎えたままであった。