四十二
土曜日の夜の「銀の鞍」は、閑散としていた。客も疎《まば》らだし、女たちも欠勤が多い。隅の席でにぎやかに飲んでいた二人の客が立上りかけると、その手首を握ってなおみが言った。
「まだ、帰っちゃ厭よ。あなたが帰ってしまったら、お客が誰もいなくなってしまうもの」
「ご挨拶だな、にぎやかしのために残っていろ、というわけか」
「ううん、あなただから、甘えてお願いしているのよ」
男の手首に縋っているなおみの二本の腕がうねうねと動き、躯に貼りつけたような衣裳を透してあらわにみえている胴や腰の線がなまなましく揺れた。男は曖昧な顔になり、席に腰をおとして、
「土曜の夜に、飲みにきたのが運の尽きか。だいたい、女の子の数がすくなくて活気がないな。気のきいた女の子は、パトロンと週末の遠出というわけか」
男は、念入りに店の中を見まわし、休んでいる女たちの顔を一人一人思い浮べている顔になった。男の顔には、酒場の内情を見抜いている得意な表情も浮んでいたが、かならずしもその言葉どおりとは限らない。日曜日を家庭サービスの日にきめているパトロンも、多いわけなのだから。もともと半日就業の会社が多いために、酒場の客はすくない日なのである。店の側では、平日とは逆にむしろ従業員の欠勤を歓迎している。しかし、実情はどうあろうと、いまその男の頭に浮んでいる女たちの傍には、すべて脂ぎった中年男がくっついていることになる。
「きみ、早退《はやび》けして一緒に帰ろう」
冗談半分の口調だが、その底にはっきり欲望が滲んだ。男の選択は謬っていない、とゆみ子はおもい、なおみを眺めた。
「早退けなんて、無理よ」
「いま、そこの公衆電話から、電話してあげる。お母さんが危篤ということにしよう」
「そうね……」
なおみの眼の光にも、一瞬、欲情が滲んだ。彼女は肩を男に凭せかけ、ネクタイを弄《いじ》りながら、
「でも、お母さんは死んじまったわ」
「それでは、お父さん」
「お父さんも、いないわ」
「仕方がない、きみの亭主を危篤にしてやろう」
「亭主なんか、いるわけがないわ。でも、それはいいかんがえだわ。はやく、誰かを危篤にして、電話をかけて頂戴」
「誰か、といって、困ったな……。いっそのこと、なおみさんが危篤ですから、すぐ帰ってください、と言うことにしようか」
「そうなれば、あたしはどうしても家で寝ていなくてはいけないことになるわね」
「家で寝ているのは、電話のなおみさんに委せて、本物のなおみさんはホテルで寝ればいい」
「ばかなことばっかし」
男の背を掌で叩いて、なおみは機嫌よく笑った。その機嫌のよさに、ゆみ子は苛立つ。男がなおみを娼婦として取扱っていることが、その会話ではっきり分る……と、過敏になっているゆみ子の神経が感じ取る。
「でも、なおみはそれでいいのかもしれない」
とゆみ子はおもい直し、あらためてなおみを眺めた。なおみの二本の腕は、独立した生きもののように傍の男の肩や胸に触り、首にまきついている。なおみは、はっきりした娼婦の徽章をつけて、「銀の鞍」で働いている女なのだから。
なおみから眼を離し、ゆみ子は店の中を眺めまわす。たしかに、女たちの数が目立ってすくない。よう子がいなくなって、十一人になっている女たちのうち、ゆみ子の眼に映ってくるのは五人だけだ。欠勤しているのは、
悦子、三千代、京子。
それに、雪子とるみである。
悦子たち三人については、先刻の男の言葉が当っているような気もする。週末の一泊旅行に出かけていないまでも、彼女たちはその高級アパートに、いまの時刻、一人だけでいることはないだろう。
るみは、何をしているのだろう。あるいは、油谷と一緒なのかもしれない。複雑に絡み合った二つの躯が、ゆみ子の眼に浮ぶ。加えられる力のとおりに形を変えてゆく女の躯。その動きは、所作事のようにみえる。「馴れ合いの恰好では、もう駄目だ」と、油谷は言ったが、その様式化された動きから、依然として油谷は快楽を偸み取っているのかもしれない……。そうおもうと、ゆみ子はやはり苛立つ。
そして、雪子は何をしているのだろう。雪子となな子が二人とも休んでいたとしたら、ゆみ子の想像は違った方向に拡がってゆく筈だ。雪子が一人だけ姿をみせていないことが、ゆみ子に悪い作用を及ぼしてくる。
「雪ちゃんお休みね、どうしたのかしら」
なな子の耳もとで、ささやいてみる。なな子は不機嫌である。眼に怒りをあらわして言った。
「さあ、何をしているのかしらね」
「なな子さん、知らないの」
「なぜ、あたしが知っていなくちゃいけないの」
なな子の不機嫌は一層濃くなり、噛んで吐き出すように言った。
「何をしているのか、分ったもんじゃないわ。あんな、淫売みたいな女」
その一言から、なな子と雪子とのあいだに痴話喧嘩に似たものがあったことを感じ取るより先に、ゆみ子は頭の中にある雪子の胸にそのまま娼婦の徽章を見出してしまう。その徽章は、欠勤しているほかの四人の女たちの胸にも、縫いつけられているのを、ゆみ子は見た。それだけではなく、いま店の中にいる女の子のすべての胸に、ゆみ子自身の胸にも、その徽章を見出した気持になった。
「子供を堕すのは厭だ」
突然、ゆみ子はそうおもった。無意識のうちに、片方の掌が腹部に押当てられていた。目立つほどではないが、はっきりと膨らみが掌に感じられる。
「結婚しよう」
客の酔った声が、聞えてくる。
「二、三日、結婚しよう。二時間ばかり結婚しよう」
なおみの陽気な笑い声が、ゆみ子を一層鬱陶しい心持に引込んでゆく。ゆみ子は、もう一度、今度は言葉に出して口の中で呟いてみる。
「子供を堕すのは厭だ……」
そのとき、なな子の声が耳もとで聞えた。
「それよりも、るみはどうして休んだの」
「知らないわ」
「どうして知らないのさ」
薄笑いを浮べたなな子の顔が、目の前にある。見透しているような表情だが、何をどこまで見透しているというのか。両手を腹部の前に、隠すように庇《かば》うように置いて、ゆみ子は黙ってなな子の顔を見た。なな子は、不意に真剣な顔になり、
「ゆみちゃんはいい人なんだからね、損な取引をしないように注意することね」
と言い、次の瞬間、薄笑いの顔に戻ると、
「損な取引、という言葉が、きっと気に入らないわね。だけど、そういう中途半端なときが、一番騙されやすいんだから……」
そのとき、なおみの傍の男が、入口に視線を向けて、言った。
「どうやら責任時間が終ったようだ。新しい客がきた、これで帰れるぞ」
扉が動いて、男が一人、姿をあらわした。油谷である。
「噂をすれば影が射す、だわ」
なな子の言葉を遮るように、
「なにも、噂なんかしていなかったじゃないの」
と、ゆみ子は言ったが、油谷が前に立つと、おもわず言葉が出た。
「あら、いらっしたの」
「来ていけなかったかね」
なな子が、口を挿んだ。
「さっきから、ゆみちゃんが心配していたのよ。るみも休みでしょう、だから……」
「嘘よ、嘘」
いそいで打消したが、油谷は自信に溢れた姿勢になり、ゆったりと腰をおろした。呟くように、言う。
「おや、るみは休みか」
しかし、油谷がるみと先刻まで一緒にいなかったことの保証はない、とゆみ子は苛立つ。そしてまた、油谷の落着きにたいして、苛立つ。