四十三
ゆみ子の心に蓄ってゆく惨めさと、油谷の心の負担とが釣合えば、掻爬のために病院へ出かけて行ってもよい、とおもっている。
「子供を堕すのは厭だ」
とは、娼婦の徽章を振払おうとして、反射的に出てきた言葉である。むしろ、病院へ行くことは、ゆみ子にとって必要なことなのだ。しかし、秤《はかり》が釣合わなくては出かけてやるものか、とおもう。彼の側には、余程重たい分銅を置かなくては、なかなか平衡が取れない。
「きみは、おれを愛しているのだから……」
二人だけになったとき、油谷は臆面もなく言いはじめた。臆面もなくというより、彼としても切羽詰った挙句のことだろう。
「だから、おれのために、産むのはやめてくれないか」
「でも……」
「たのむ」
「かんがえてみるわ」
その問答が幾度も繰返され、日が経っていった。
「ゆみちゃん、すこし肥ったのじゃなくって」
雪子がゆみ子の全身を眺め渡しながら言ったが、まだ妊娠と疑っている眼ではない。
「産むのはやめてくれないか」
同じ言葉を口にするときの油谷の眼が険悪になり、頬骨が尖《とが》ってみえた。これ以上は延ばせない、とゆみ子自身が考えた。
「いいわ」
「ほんとうか」
芯から安堵した声が、油谷の口から出た。ゆみ子は、失望を感じた。油谷の何にたいして失望したのか、はっきり分らないが、苛立ちを覚え、もっと虐《いじ》めてやらなくてはとおもう。
「でも、お医者さんは探してくれるわね」
「分っている」
「一緒に、ついてきてくれるわね」
「うん」
「その場に、立会って頂戴」
「しかし、きみ」
「そうしなくては、厭よ」
「分った」
ホテルの一室である。その部屋は、この一ヵ月間、ただ油谷がゆみ子を説得するためにだけ使われていた。油谷の躯はいつも萎えており、ゆみ子の躯を無理なかたちに捩じ曲げようと攻撃を試みることさえしなかった。
いま、油谷は椅子に腰かけたまま、折り畳んだ白いハンカチを額のあちこちに押当てて、汗を拭っている。その手つきがひどく律義なものに、ゆみ子の眼に映ってきた。
結局、油谷は世間一般と同じ男に戻りたいのだろう、とゆみ子はその手つきを眺めながらおもった。相手の女に異常な形を教え込みたいのではなく、彼は自分の不能から回復したいのにちがいない……。回復をあきらめて自棄《や け》になったときにはるみに向い、回復を願うときにはゆみ子に誘いをかける。