四十六
「六時から、会社の宴会がある」
と言って、油谷は立上った。
「今日は、店は休むか」
「ええ」
「そのほうが、いいかもしれないな」
油谷の姿が部屋から消えると、すぐにゆみ子は立上った。外出の仕度をする。部屋に閉じこもっていることに耐えられない。気を紛らわしたい、とおもう。しかし、目当ての場所があるわけではない。
身づくろいをしながら、おもわず掌が腹部に触る。以前と同じように、はっきりした膨らみが触れてくるが、その膨らみにたいする躯全体の感じ方は、すっかり違っている。あきらかに、妊婦ではなくなっている。
戸外へ出ると、夕焼は消えていた。
「どこへ行こうか」
歩きはじめてから、ゆみ子は考える。
タクシーに乗って、とりあえず行先を銀座と告げた。結局、やはり店にでも出てみようか、と考えている自分に気付き、
「つまらない」
と、呟く。
両側に並木の植わった道を、ゆみ子は歩いている。夕暮の銀座は、人通りがはげしい。いつものゆみ子は俯き加減に、真直ぐ店へ向って足を運ぶのだが、わざと左右に眼を配って歩く。
しかし、人間のたくさんいる道は、ゆみ子を苛立たせる。
幸福そうにみえる人間は、腹立たしい。
不幸そうな人間も、鬱陶しい。
そのくせ、擦れちがう人間たちから、ゆみ子はそのどちらかの表情を読み取ろうとしてしまう。
生きている人間には眼を向けないようにしてみるが、左右に連なっている商店の飾窓も、色彩が多すぎるし、また鮮かすぎる。表通りから弾き出されかけている自分をゆみ子が感じたとき、一体のマヌカン人形が眼に映った。こまごまとした沢山のアクセサリーを並べた飾窓の中に、その人形は黄色い水着を着て立っている。赤、藍、緑……、たくさんの濃い色のまじり合った花冠を、頭にかぶっている。焦点の合わぬ眼、曖昧な顔つき、無機質の肌。そして、どういうわけか黄色い布につつまれた局部が、異様な盛り上りを示している。
その人形が眼に映ったとき、ゆみ子の足はおもわず狭い路地に曲りこんだ。
銀座には、沢山の路地がある。大通りから、帝国ホテル寄りの広い通りまで、路地をつたわって縦に抜けることができる。そして、華やかな表通りも、沢山の路地も、ともに銀座である。
ゆみ子の歩み込んだ路地には、人間の姿は一人も見えなかった。薄暗く、狭く、水たまりの多い湿った路地の中で、ゆみ子はようやく落着きを取戻した。黒く塗ったゴミ箱が一つ、行先にみえる。蓋はきっかり閉まり、その黒い蓋の上に、身を削《そ》がれた大きな魚の骨が載っている。捨てられた骨だが、きちんとそこに置かれたようにみえ、白く美しく光ってみえる。
自分の気持の曖昧さを解きほぐそう、とようやくゆみ子はおもいはじめた。薄暗い湿った路地が、身に親しい。
路地から路地を伝わってゆっくり歩きながら、ゆみ子は考える。
「結局、油谷はあたしを愛してはいない。愛しているのは、自分自身なのだ」
先刻、油谷の顔をかがやかせた喜びは、ゆみ子にはよく分る。ゆみ子の妊娠問題が解決して、負担を取除かれた喜び。思い詰めるほど愛されていたという喜び。不能から回復した喜び。彼の顔のかがやきは、すべて自分自身に向けられたものだ。
「わたしに向けられたものは、なにもありはしない」
ゆみ子は立止って、苛立つ。また、歩き出して、考えはじめる。
「一緒に暮そう」
という油谷の声が、耳の奥で鳴った。その声の生あたたかさを、ゆみ子は思い出す。つまり、妾《めかけ》になれ、ということだ、とおもう。妾になるならば、もっと別の形でなった方がいい、その生あたたかさが厭だ、とおもう……。
あるいはまた、正妻という位置でなくても、愛されているならば……、ともおもう。
「きみの部屋へ、送ってゆくよ」
レストランでの油谷の声のやさしさを、思い出した。あのやさしさも、やはり彼自身の余裕と機嫌のよさから出てきたものだろうか。あのやさしさから、ゆみ子への愛が誘い出されてくることはないだろうか……。そこまで考えたゆみ子は、
「そのことを望んでいるのか」
と、自分に問いかけた。
すぐに、ゆみ子の頭に浮んでくることがある。それは、二年前の霧の夜の情景と、あの青年との短かい生活である。たとえ油谷が恋愛の気持をもったとしても、その感情は、持続するものではない。人生において、別れも苦しみであり、出会いも苦しみである。そして、油谷とはやはり「出会い」と呼ぶに足る鮮烈さはなかった。
「お店へ行こう」
ゆみ子は声を出してそう言い、歩き出した。