23 コロッケ
五木寛之のエッセイを読んでいて、おもわず笑い出したことがある。
ある日、テレビ局から五木のところに電話がかかってきて、料理番組に出てくれという依頼があった。「私の得意料理」とかいう番組だそうである(記憶で書いているので、いくぶん違っているかもしれない)。
「得意な料理はあります」
と、五木が答える。
「どういうのでしょうか」
彼は、その内容を説明する。まず、テーブルの上にトースターを用意する。前の晩に、肉屋で買ったコロッケを取出す。
つめたく、固くなっている。これを両の掌のあいだで押し潰《つぶ》す。そうしないと、トースターの割れ目に入らないからである。
トーストにする食パンくらいの厚さにしたコロッケを割れ目に入れ、電流が通じるように把手《とつて》を押し下げる。そうしておいて、しばらく待っていると、
ポン
と、熱くなったコロッケが飛び上ってくる。それを皿に移し、ソースをかけて食べる……。五木が説明しおわると、電話の相手の声が曖昧《あいまい》になり、
「いやあ、それは、どうも。ではまた」
と、いうことになったそうだ。
しかし、私が番組のプロデューサーだったら、こういう卓抜な内容のものは、けっして敬遠はしない。
それにあの二十五円くらいのコロッケは、うまい。なまじ、値段が高くて肉の多いものは、私の趣味には合わない。ジャガイモが大部分で、ときどき肉ともおもえぬ小さなコリコリした粒が歯に当るものがよい。
この小判型のコロッケに、ソースをだぶだぶかけて、熱いめしのオカズにする。
ソースはウスター・ソースにかぎる。トンカツ・ソースとかいう、甘くてドロドロしたものは戦後の産物で、昔はああいうものは存在していなかった。
私がそういう見解を述べると、ある食通(とくに名を秘す)が反対意見を出した。
「そんなのはダメだ。コロッケというのは、まるくふわっとフクラんで、中身がとろりとしたものでなくちゃ、食べられたものではない」
そういうものにも旨《うま》いのはあるが、私が問題にしているのは「コロッケ」のことで、その食通のいうのは、しいていえば「クロケット」とでもいうものか。
こちらが塩せんべいの話をしているときに、生クリームを使ったケーキを礼讃しているようなもので、だから食通は困る。
秋山庄太郎も、このコロッケの愛好者である。マージャンのはじまるときに、黙って紙包みを差出すときには、中身はかならずコロッケである。
夕飯の支度どき、肉屋の店先は女性で混雑している。女ばかりの列ができていて、そこに日焼けした秋庄がその巨体を加える。テレビによく出るので顔を知られていて、
「あの人、なにを買うのかしら」
と、女性たちは注目している。
彼の番になると、
「コロッケ、十ケ」
と、低音というか、ダミ声というか、とにかくそう言って買ってくるらしい。