25 焼き鳥㈪
女には子宮がある。
男には子宮がない。
この相違がジャンケンのような事柄にまで反映しているところから説きおこして、テツガク的思考を展開しようとおもったが、それは別の場所で発表することにして、今回も子宮の話を書く。
ところで、「子宮」と「焼き鳥」と、どう関係があるのか。レストランへ行って、鳥の丸焼を註文してしみじみ眺めると、これが子宮の形をしている。ヤキトリ屋へ行って、モツ・ハツ・ガツと食べ、つづいて「コブクロ」を註文すると、豚の子宮を切り刻んだ肉片を串に刺して焼いてくれる。
しかし、ヤキトリ屋で、なぜブタを食わせるか。
こういう質問にたいしては、まじめに答えてもつまらない。
その返事をいま即席で、二つ三つつくってみた。
まず、一見論理的な答え。
ヤクザとは、なぜそういうか。八九三を合計すれば二〇になる。つまり下《しも》ヒトケタはゼロなので、これをブタといって花札のオイチョカブでは最低の数字である。なんの役にも立たない。
「どうせおれはブタだ、極道者だい。こうなりゃ、なにをやったってかまやしない」
というわけで、焼き鳥と銘打ってブタを食わせている。
次も、論理的な答え。
「諸君は、死んだブタが二枚の羽根を生やして天国へ昇っている絵を見たことがあるだろう。すくなくとも、マンガでは見たにちがいない。空を飛んでいるからには、これは鳥である。ブタは鳥なのだ、だからヤキトリにするのである」
次は、返事をしているほうでも、論理の按配はさっぱり分からないが、なんとなく感じのある言い方。
「なぜ、ヤキトリなのに、ブタなのか」
ブタか、
トリか。
ぽんと一つ、両手を叩き合わせて、音を出す。
「さて、鳴ったのはブタのほうか、もしくはトリのほうか」
ここでお断わりをするが、禅について研究している方は、本気で怒らないでいただきたい。ナンセンスについて怒るほど、ナンセンスなことはない。
半世紀も、私のように文筆業をつづけていると、ときたま思いがけないことで怒られる。
もう十年以上も前になるが、鼠小僧を主人公にしたユーモア時代小説を書いた。サシエは風間完で、その絵はユーモラスな傑作であった。
その小説で、碁を打つ場面が出てくる。
リアリズムの小説ではないから、当然絵のほうもリアルなものではない。
そのとき投書がきた。
「あの碁盤の線は三十三本ある。碁盤は十九本ずつに古来きまっておる。ああいうデタラメな絵を描く画家も画家であるが、そういう人物と一緒に仕事をするオマエもオマエだ。深く反省せ よ」
それには困った。
返事の出しようがない。
こういう人物に、ピカソの一時期の絵、たとえば鼻が五つで眼が十個ほどある人物像を見せたら、怒りのあまり悶絶《もんぜつ》するだろう。
ところで、今回書こうと思っていた子宮の話が、どこかに行ってしまった。