28 納豆(なっとう)㈪
「となりの町に、悪いヤクザがいましてね」
と、その親分がいう。
悪いヤクザとはなにか、といえば、シロウト衆をひどい目にあわせるから、という解釈である。
そのヤクザを懲らしめよう、ということになった、とその親分が話しはじめた。もっとも、この話もウソか本当か分からない。
いろいろ私は疑うわけだが、しばしば考え過ぎ、といったところがある。
しかし、まず疑うことにしている。ときに、ダマされてもいいから、あっさり信じてしまえ、という気分になることもあるが、このタイミングがむつかしい。
その親分がとなり町のヤクザをコラしめようということになったので、そこで出入りがあった。相手の親分を、刺してしまった。
コラしめるつもりなので、殺す気はなかったのだから、もののハズミということになる。
どうやら死んだらしい、と分かったが、一応病院に運んで行こう、ということになった。通りかかったタクシーをとめて、親分が頭のほうをもち、子分の一人が脚をもって車の中に担ぎこんだ。
運転手があわててドアを閉める。そのドアに、子分が自分の脚をはさまれて、
「痛い!」
と、叫んだ。
この声が、運転手の耳には、担ぎこまれた人間が、
「痛い!」
と叫んだように聞えていた。したがって、警察でそのように証言した。
死体が叫ぶわけはないので、タクシーに担ぎこまれたときは、まだ生きていた、ということになる。そういう判断が下された。
子分がドアに脚をはさまれたのは、幸運だった、といえる。
以下は、私には法律の知識がないので、その親分の説明である。
車内に担ぎこんだとき、すでに死体だったのと、そうでなかったのとでは、雲泥の差ができてくる。もしもそのとき死体だったら、
「殺人罪」
痛いと叫んで、その後で死んだなら、
「傷害致死罪」
死体が叫んでくれたおかげで、ずいぶん罪が軽くなった、という。
もしも……、と私は考える。その子分が頑健で、めったなことでは驚かないような男だったとして、ドアに脚がはさまれたくらいでは一向に感じなかった、とする。
「おい、運転手さん、落着いてくれよな」
くらいで済んでいたとしたら、事態はまったく違っていたことになる。
人生は、「もしも」に満ちている。そこがまた面白いところで、「もしも」と考えてその面白さにおもいを至すのは結構だが、悔むのは|めめ《ヽヽ》しいことであるのだ(オヤ、説教調になってきた)。
マージャンのときも、
「もしも、あのときセオリーどおりのカンチャンで待たないで、シャンポンにしておけばなあ。そうすると、リーチ、一発ツモになったんだがな」
などとボヤクと、
「あとでゆうのは、フクスケの頭」
などと、かならずカラカワれることになっている。