35 泥鰌(どじょう)
新カナ旧カナ論議がさかんだったころ、新カナ論者がこういう意味のことを言った。
「ドジョウの旧カナは、ドゼウであるが、さらにその前にはドヂヤウと表記した。一概に旧カナというが、それほど曖昧《あいまい》なものなのである」
私はその言葉を信じていた。
ところで、四分の一世紀経ったころ、テレビで泥鰌屋の主人が発言していた。
「どぢやう、と書くと、四文字になる。四は縁起がわるいので、どぜうと三文字になるように書いている」
してみると、「どじょう」の旧カナは、最初から「どぢやう」なのであるか。
子供のころ、私は本好きで、ずいぶんの量の読書をした。しかし、いまでもその内容が記憶に残っているものは、微量である。
少年|倶楽部《クラブ》で読んだ話だが、若い衆が集まって、どじょう鍋《なべ》をしようということになった。各人いろいろと持ち寄ったとき、豆腐を一丁持ってきた男がいた。
鍋からすこし湯気が上りかけたころ、その男は豆腐を切らずに四角いままで鍋に入れたが、間もなく急用をおもい出した、といって、その豆腐を持って帰ってしまった。
「トウフの一丁くらい……、ケチなやつだなあ」
と言い合っていたが、やがて煮立った鍋の蓋を開けてみると、ドジョウが一匹もいない。
みな唖然《あぜん》とした。
読んでいた私も、唖然とした。
子供のころ、私は手品好きで、デパートの手品のタネ売場をずいぶん見てまわった。しかし、このタネは子供の小づかいにとってはかなり高価で、たまにしか手に入れられない。
その上、私は指先が自分でも意外なくらい不器用で、せっかく買ったタネを活用することができなかった。
この話が記憶に残っているのは、手品を見ているような内容だったからにちがいない。
要するに、鍋の水が熱くなってきたので、ドジョウがつめたい豆腐の中にみんな潜りこんでしまい、そういう豆腐を持ってその男は帰ってしまった、という種明しになる。
ところが最近になって、同じ手つづきで泥鰌豆腐をつくり味つけしたものが、実際にあることを知った。ただし、その話からヒントを得て考案した料理なのか、料理のほうが昔からあったのか、私は知らない。
先日、テレビの料理番組で、ゲストの婦人が柳川鍋をつくってみせていた。
ふつうの柳川と違うところはドジョウを割《さ》かないで、生きているのを丸のまま煮え立っている鍋の中に投げこみパッと蓋をしてしまう。
おそらく、鍋|茹《ゆ》でにされて身悶《みもだ》えするドジョウのエネルギーが内にこもって、味が良くなるという発想なのであろう。
残酷な感じもするが、考えてみれば、生身の頭に釘《くぎ》を打ち込んで固定させ、縦に庖丁《ほうちよう》で割いてしまうのも残酷であり、結局は殺して食べるのだから考え出したらキリがない。
「泥鰌を酒で殺す」
と、いう。
この場合の「殺す」は、ザルに入れたドジョウに酒を振りかけて、ピンピン跳ねるのをぐったりさせる、という意味である。「味を良くする」という感じも加わっているようだ。
麻酔を使って手術するのと、生身のまま切り裂くのとでは、後者のほうが残酷といえる。
しかし、ドジョウの場合は酒で麻酔をかけても、結局は食べてしまうのだ。