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贋食物誌36
日期:2018-12-08 22:11  点击:303
     36 猿(さる)
 
 
 殺す、という行為の残酷さは一応自明の理ときめておいて、殺し方の残酷さは息が絶えるまでのプロセスにある、と私は考えている。
 たとえば、マシンガンの弾丸を千発打ちこまれて、からだが穴だらけになって死んだとすると、それは一見残酷な光景である。
 しかし、殺される当人としては死ぬまでの苦痛は、きわめて短かい。とくに不意打であったとしたら、神経的苦痛もゼロである。
 やはり、一寸刻み五分刻みのナブリ殺しが、最も残酷といえるだろう。さかさに吊《つる》して、まずナイフの横腹で咽喉《のど》のあたりをスーッと撫《な》でて、
「これから殺すぞ」
 という意思表示をする。
 つぎに、耳を切り、鼻を削《そ》ぎおとし、手足を|※[#「手へん+宛」]《も》いでゆき、最後にひとおもいに心臓をぐさりと刺せばまだ救われるが、そんなラクはさせない。腹を裂いて内臓をはみ出させ、そのまま放置して死ぬのを待つ。
 人間の一生というのはおおむねそういう形のもので、人生はまことに残酷。五十歳にもなるとそういうことが分かってきて、一生を振り返って泣けてくる。と同時に、死ぬことがこわくなくなってくる。ただし、やはり苦痛の長びく死に方はイヤだ。
 泥鰌豆腐についていえば、鍋の水がしだいに熱くなってきて、フト気付くと近くに冷たいトウフがある。そこに潜りこんで、やれやれ助かったとおもっていると、鍋の中はどんどん熱くなって、トウフと一緒に煮こまれて落命してしまう。
 ただ、ドジョウの精神肉体面での苦痛の按配がよく分からなくて、形は一見残酷風だが、じつは大したこともあるまい、と平気で食べてしまう。
 昔のシナに、生きているアヒルを灼熱《しやくねつ》した鉄板の上にのせる料理があった、と聞く。熱いので、アヒルは足をバタバタさせて、その水かきの部分に全身のエネルギーが集中したまま死ぬ。
 その水かきのついた部分だけを切り離して食べると、すこぶる美味だそうだ。
 こういうのも、残酷さを感じるよりも、人間の知恵を示している料理法という気分のほうが先に立つ。
 しかし、ドジョウもアヒル料理も、その残酷さに耐えられない、という心もちになる人もいるだろう。
 周知のように、精進料理は肉も魚も使わないが、生臭いものを使わない、というだけのことなのか。あるいはそういう気分が根本にあるのか。
 フランスに、フォア・グラという手のこんだ料理があって、いまわが国で食うためにはカンヅメしかないが、甚だ高価である。訳せば、「肥大してブヨブヨした肝臓」ということになる。ガチョウを動けないようにして(板の上に足を釘づけにするともいう)、口から飼料をそそぎこむ。
 腹一杯になっても許さない。咽喉の底まで管をつっこんで、餌《えさ》を詰めこむ。その結果何倍もの大きさになったガチョウの肝臓をつかって、ペーストをつくる。これに、松露《しようろ》という真黒いキノコの一種を添えて食うと、すこぶる美味(ただし、私はカンヅメしか知らない)である。
 ただし、サルの残酷料理というものについては、私は敬遠である。
 昔のシナに、生きたサルの首を板の穴から突出させて、頭蓋骨を割り、脳味噌を食べるという料理があったという。そんなものは、とてもいけない。サルの気持が分かるような気がするからだ。

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