40 煙草㈪
大雪の前に異常乾燥がつづいていたとき、車のラジエーターの水が減っていて、オーバーヒートしかかった。あやうく直前に気付いて水を補給したが、それでも運転しているとすぐに過熱気味になるところをみると、原因はほかにもあるようだ。
その二日後に、芥川賞の選考会があることになっていた。委員の一人である私としては、当日は品川の自動車会社まで運転してそこに車を整備に出し、あとはタクシーで築地の会場まで行くつもりでいた。
そういう段取りのために、その会社に予約したのは、車の異変に気付く前であった。
当日、品川までのあいだに故障して動かなくなる場合のことを考えて、早目に家を出た。さいわい途中でトラブルがなかったので、一時間以上時間が余ってしまった。映画を見るには時間が足りないし、仕方がないので三原橋のパチンコ屋に入った。
時計をもってくるのを忘れてしまったので、店の中の壁に一つだけある電気時計がみえる範囲の台でしか、玉を打つわけにはいかない。もっとも時間潰しのためなので、台を選ぶ必要もない。あまり玉が入らないで、二百エンずつ何度か買っているうち、突然当りはじめた。やたらに玉が出て、この調子ならあと十五分も打てば千個にはなる按配になってきて、チラチラ時計を眺めながら指を動かすが時間がなくなってくる。
玉を交換し、手を洗い、歩いて会場まで行くと、十分前に到着する計算の時刻になった。ハイライトを十三箱、パチンコの景品が入っていると一目で分かる紙袋に入れてくれた。
その紙袋をぶら下げて歩いているうち、これではいささか不謹慎である、とおもいはじめた。二十年前に、私は四回目の候補のときその賞を受賞しているが、いつも選考の日は落着かない厭《いや》な心持であったので、候補者の皆さんにも申し訳けない気分になった。
しかし、パチンコをして、なぜ不謹慎か。パチンコはいまでは健全娯楽になっているが、選考の直前チンジャラジャラと遊んでいる感じが、悪く私の心に作用してきたのだろう。
歩きながら、オーバーの左右の内ポケットに四個ずつ詰め込んでボタンをかける。外側のポケットに左右二個ずつ、残った一箱をセビロの上衣のポケットに入れて、紙袋は道傍の屑籠《くずかご》に捨てた。
なにくわぬ顔で、会場へ行く。料亭の仲居に外套《がいとう》を渡すと、あちこち膨らんでガサゴソ音がした。
私が委員になって三年目だが、こういう会は疲れる。あとは、酒を飲みたくなる。
井上靖さんに誘われて、安岡章太郎と三人で銀座のバーへ行く。
世間話をしながらウイスキーを飲み、タバコをプカプカと喫う。上衣に入れておいた一箱のハイライトは、会場でも喫っていたので間もなくカラになってしまった。
「タバコお持ちしましょうか」
と、ホステスが言う。
「いや、おれのオーバーから持ってきてくれ。どのポケットに手を突っこんでも、ハイライトがたくさん入っているから」
そう頼むと、彼女はふしぎそうな顔で席を立った。やがて、一箱のタバコを手にして戻ってくると、
「ほんとだわ。あちこち、いっぱい。どうしたわけでしょう」
この賞の選考がおわると、底のほうから神経が立ってしまっているので、数日のあいだは睡眠不足になる。