日语学习网
贋食物誌46
日期:2018-12-08 22:18  点击:246
     46 馬(うま)㈪
 
 
 十五年ほど前、「九百九十円の放蕩《ほうとう》」という題のルポルタージュ風の文章を、ある雑誌に書いたことがある。
 千円札一枚の余裕ができたとして、それで面白く時間の過せるところがどこかにないものか。しかも、三人連れでその値段というわけで、その発想からして、その後の物価上昇の按配が分かろうというものだ。
 当時は、アルバイト・サロンというものが流行しはじめたころであった。
 いまその文章を調べてみると、三人連れで銀座のアルサロに出かけている。それも、いかにも安直そうな店ではなく、地下室への階段を下り切ると、四方を濃緑のビロードで張りつめた通路が曲りくねってかなり長くつづいている。足音はその布地に吸収されてしまい、いまだったら、一人分だけでも、
「この店は千円札一枚ではとてもムリ」
 と考えて、踵《きびす》をまわしたに違いない。
 当時でも、その通路を歩きながら、この勘定ははたしてどのくらいになるのか、千円ではとてもムリだろうと、不安とスリルを感じたものだ。
 そのときの勘定は、ビール二本、女の子の指名料も含めて、九百十円であった。
 もっとも、アルサロと放蕩とどういう関係があるか、という疑問をもつ人もいるだろう。
 もともと九百九十円で放蕩できるわけがないので、あまり理詰めなことは言ってほしくないが、大学の先生をしている友人が当時訪れてきて、
「今度、アルサロというところへ、行ってみようとおもうんだ!」
 と、思い詰めたように言った。
 まるで武者修行にでも出かけるような意気ごみで、平素謹直な男にとってはアルサロへ行くことも放蕩のうちに入るのである。
 この企劃《きかく》のときに、深川森下町にある馬肉屋にも寄ってみた。屋根の上にサクラの形をしたピンク色のネオンサインが掲げられていて、がっしりした造作の二階建ての日本家屋にも趣があった。数年前に行ったときには、入口の扉が自動ドアになっていて建物に似合わず、いくぶん興醒《きようざ》めであった。
 この店の一階は、大広間一部屋だけで(その後、別室ができたが)、左右両側に細長くブリキ張りの台が設《しつら》えてある。スキヤキ鍋《なべ》の置かれた台をはさんで、たくさんの客がずらりと居並んで、旨《うま》そうに鍋で煮えた馬肉を食べている。
 馬肉に偏見をもつ人もいるだろうが、鍋の中に味噌をすこし入れるので臭みが取れるのだろうか、なかなか旨いしサクサクして沢山食べられる。
 ここは、客種が店に似合っていて、下町の商家のおかみさん風の女が、娘や息子を五人ほど引連れてきて、そろって旺盛《おうせい》な食欲を示したりなどしている。茶碗の飯を勢よくかきこんでいるおかみさんの血色のよい頬に、白い飯粒が一つくっついている。子供たちも、まるい膝《ひざ》小僧をそろえて正座し、一所懸命パクついていた。
 私たち三人は、一人前七十円の馬肉のスキヤキを六人前註文して銚子を五本空けたが、全部の支払額は九百六十円であった。
 放蕩の気分はなかったが、健康的な満腹の気分になった。
 帰る前に便所に入ると、並んでいるアサガオの上に横長の鏡が取りつけてあった。放尿しようとすると、鏡に映ってみえる。つまり、馬肉は体があたたまって精力がつくものなので、その証拠をごらんなさい、という意味合いの鏡である。
 

分享到:

顶部
11/29 07:47