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贋食物誌50
日期:2018-12-08 22:22  点击:337
     50 ラムネ㈪
 
 
 私の祖父は、戦後しばらくして岡山で亡くなった。七十代の半ばであったから、当時としては長生きといってよいだろう。
 当然、明治の生れで、いわゆる明治人間であった。甚だ頑固であり、若いものの立居振舞にうるさかった。
 東京育ちの私は、小学校時代からしばしば夏休みには帰郷した。孫は可愛いものらしく歓待してくれるのだが、閉口することが多い。
 小学生のころは、ラムネは絶対飲んではいけない、本来なら咽喉の乾いたときには水で十分なのだという意見で、サイダーならまだ大目にみてくれる。ラムネは不潔であるからといって、ぜったいに許可してくれない。
 禁止されると、ますます試みたくなる。小学校初年のころだが、祖父が瀬戸内海の遊覧船に乗せてくれた。さっそく売店に行って、ラムネを飲む。
「おまえ、しばらく姿を見せなかったが、どこに行っていたのか」
「サイダーを飲んできました」
「そうか、サイダーなら、まあ、よろしい」
 高校時代になると、干渉の仕方が違ってくる。そのころにも、岡山で送った夏期休暇がある。毎日々々外出するのだが、行先はドサまわりの軽演劇がかかっている小屋である。
「おまえ、毎日どこに行っているのか」
 と、祖父が質問する。
「はあ、山を歩いてきました」
 そう答えると、機嫌がよい。
 単純なところもあって、そこがいまとなると懐かしい、という考え方もできるのだが、案外ダマされたふりをしていたのかもしれない。
 その夏休みには、夜もこっそり外出する。父親の弟つまり叔父に誘われて、酒を飲みに行く。足音をしのばせて、裏木戸から出入りする。
 祖父は、早寝早起冷水マサツ・質実剛健をモットーとする人物なので、裏木戸からの出入りは難しくはない。
 こっそり帰ってくると、叔父の細君つまり叔母がたずねる。
「どうだった」
「うん、何某バーの何子ちゃんというのが、とてもキレイだった」
 狭い町なので、叔母の頭にその女の顔かたちが浮んでくるらしい。
 翌日、私が座敷に寝そべっていると、叔母が急ぎ足でやってきて、
「いま、何子ちゃんが家の前を歩いているわよ」
 たちまち、祖父に聞きつけられて、叔母が叱られる。
「紅灯の婦女子がわが家の門前を通行しておるからといって、騒ぎ立てるとは何ごとであるか」
 もっと口語調で怒るのだが、そういう感じになる。
 その夏休みに、たまたま鳥取の大震災があった。岡山とはそれほど離れた土地ではないので、ひどく揺れて地面が上下に動く。庭の石灯籠《いしどうろう》の継ぎ目がカチカチ鳴って倒れかかった。
 上下動はこわいのを知っているのだが、当時から「どうでもいいや」というところがあって、そのまま寝そべっていた。
 祖父は弾かれたように立上り、二、三回くるくる縁側でまわった。ようやく地震が鎮まると、重々しく私に向って言った。
「いまのおまえの態度はよろしい、落着いていてなかなか立派である」

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