76 鰯(いわし)
「王様のスープ」という話があるが、あのスープをつくったコックの腕はやはりよかったのだ、とおもう。
念のために、その話を簡単に書く。
どんなご馳走をたべても旨いとおもえなくなった、と苦情ばかり言う王様に、
「旨いっ! とおっしゃるようなものを、かならず調理いたします」
と、コックが約束する。
「そのかわり、一日だけ、なにも召上がらないでいただきとうございます」
一日絶食した王様に、なんの変哲もない野菜スープを出した。一口すすった王様が、
「旨い」
と、おっしゃった、という。
まことに人畜無害な話であるが、一日の絶食程度では、胃にものを容れる満足感とはべつに、やはりマズいものはマズいと舌は感じるとおもう。
もっとも、平素よりは、判断の基準は弛《ゆる》んでいるだろうが。
一年間病気のため、私は食べ物に興味を失っていて、次の一年間はいろいろの料理を思い詰めたことは、前にも書いた。
このごろは、興味のもち方の角度が変ってきて、アッサリしたものとか安直なものを選ぶようになってきた。
最近では、おもいがけなく立原正秋が鎌倉の干物を配達させてくれて、これが大層旨かった。江ノ島の近くで電車が大きくカーブしている角の店が昔から有名で、そこのものではあるまいかと推測していたが、はたしてそうであった。
メザシ、アジ、干しガレイの三種類が、籠に入っていた。私は家の手伝いの人に、
「ここらあたりの刺身は食べさせないでくれ。魚屋では、干ものでも買うこと」
と言ってあるので、しばしば食卓に干ものが出る。それにショウユをたくさんかけて誤魔化して食べるのだが、メザシやアジでは物足らず、干しガレイならまだマシなのである。
届けてもらった干ものには、ショウユなど使う必要はなかったが、メザシ、アジ、干しガレイの順で食指が動いた。これは一つには現在の私の嗜好《しこう》の方角を示していて、干しガレイは身がしまって腰がつよくて大そう美味であったが、メザシのほうに箸《はし》が行ってしまう。
最近も、あるフランス料理屋へ仕事にからんで出かけた。古くからの知り合いのその店のマダムに、
「どうも、このごろ凝った料理に興味がなくなってきた。いずれまた様子が違ってくるかもしれないけれど、いまはフランス料理より、牛丼のほうがいい」
と言うと、
「それなら、牛丼をご馳走しましょうか」
「おたくのメニューにあるの」
「コックたちが、勝手につくってますわ。大きな鉄の鍋《なべ》に、臓物や野菜をどんどん放りこんで……」
聞いただけで、唾が出てきた。
どの料理屋でも、コックや従業員がつくって食べているものに、じつは一番旨いものがある。中国料理店などでもそうで、馴染みになってこっそり頼むと、ツマミ菜に唐辛子を刻みこんでイタメただけの皿が出てきたりする。こういうものが、ひどく旨い。
鮨屋《すしや》などでも、おやじが寝酒の肴《さかな》にと考えて、隠してあるようなものを出してもらえるようになるまでには、時間がかかる。