78 スプーン㈰
先日、イレブンPMをみていると、ユリ・ゲラーという超能力者と称する人物が出てきた。スプーンの頸《くび》のところを指先でいじくっているうちに、そこがプラスチック化してくにゃくにゃになり、最後に柄を持って烈しく振ると、引きちぎれたようにそこからスプーンが二つの部分に離れて飛んだ。
司会の大橋巨泉が昂奮《こうふん》(あるいは演技かもしれない)して、三月七日の木曜スペシャルという番組には日本全国で大変なことが起るが、その内容はいま言うわけにはいかない、という意味のことを喋っている。
スプーンに関しては、私は手品だとおもって見ていた。手品は子供のころから大好きで、練達の人の技はテレビのスローモーション・ビデオを見ても分からないほど、見事である。
しかし、これを霊感とか超能力という言い方に擦《す》り替えて、大袈裟《おおげさ》にもっともらしく扱うと、すこし腹が立つ。もっとも、世の中の常識というのはアテにはならず、いまでは地動説が常識だが、それでも気分としては動いている球体の上に存在していることが、不可思議におもえてくる瞬間もある。ただ、ガリレオ・ガリレイを処刑する側にはまわりたくない。
人間は原子バクダンもつくってしまうのだから、何が起るか分からない。だが、それは理論は説明されても理解できるわけがないが、そこに科学的プロセスがあることだけは確かである。
いや、科学的に説明がつくだけが能ではないにしても、スプーンが指先で溶《と》けるのが手品ではないということになるとこれは許しがたい。「霊感」とか「テレパシー」とは、次元の違う問題である。
テレパシーのようなものは、説明はできないが、私にかぎらずいろいろの人が体験している筈である。たとえば私にも、五年くらい会っていない縁の深い人物のことを考えていると、突如電話が鳴る。出てみると、その人物の声が聞えてくる。
そういうことは、数え切れないくらい起っている。
昔、好きな女ができた。といっても、かるがるしく交渉のもてる相手ではなく、肉体の関係はない。相手も私に好感をもっているようだった。そのころ、連続四日間、街で偶然その女に出会った。いつも女には連れがいて、立ち話で別れることになり、私はあきらめた。その瞬間から以来長い間その女と出会ったことがなくて、十年目にホテルのロビーで挨拶された。そのときも、お互いに忙しくそのまま別れた。
こういう具合に、人生には未知の領域が残されている。この謎《なぞ》は苛立たしくもあり、愉しくもある。
しかし、霊感のようなものもあまりインチキくさくなると不愉快になる。
このごろのテレビでは流行で、しばしばそういう番組があるが、単純な幻覚幻聴を異常現象のように言う人物が画面にあらわれると、それが専門家の場合はインチキとおもい、シロウトのときには知性を疑う。
「眠ろうとしたとき、わたしの枕もとに黒い影がじっと蹲《うずく》まって……」
などとマジメな顔でいっていたりすると、
「いい加減にしろ」
と、テレビに向って怒鳴る。
私も眠る直前に、眼をつむっているのに目蓋がどこかへ行ってしまったように、室内のものの形が一つ一つはっきり見えることはしばしばある。
電燈は消してあって真暗だから、これは幻覚ですこしも不思議にはおもわない。